私は、これらの預言は「起こる可能性が高い」ことではあっても、石に刻まれた運命ではないと考えます。
例えば預言者ヨナが、「今から40日後にニネベは滅びる」と宣言したとき(旧約聖書ヨナ書3章4節)、それは「条件付きの予言」でした。ニネベの人々が何らかの形で悔い改めることができれば、実現しないものでした。
あるいはさらに強い例として、新約聖書において、キリストがゲッセマネの園で裏切りを察し、弟子たちに共に祈るよう求めた場面があります。しかし、弟子たちは眠り続けてしまいました。私はいつも思うのです。もし彼らが眠り込まずに祈り、行動していたとしたら、キリストが救われるという「もう一つの結末」があったのではないかと。
ですから私は皆さんに、私の講義に対して単に(二度寝をする時のように)「スヌーズボタン」を押すような反応をしないでほしい、と励ましたいのです。
科学は「手段」
「目的」を忘れてはいけない
宗教と科学の二つがある意味で明確に異なり、かつ補完的である理由は、宗教が私たちに「目的と意味」の感覚を与えてくれるからです。「私たちは何を達成しようとしているのか?」「人間の人生のゴールとは何か?」といったことです。
科学は私たちに「手段」を与えますが、宗教は「目的(帰結)」を与えます。目的の感覚がなければ、科学はただ制御不能になって走り続ける機械に過ぎません。それは善にも悪にも、何にでも使えるツールです。そして現代世界における危険とは、私たちが「目的」を忘れてしまったことです。
私たちが何を目指しているのかを忘れ、手段に対するある種、盲目的な信仰を持ってしまっています。「何のためにそれを使うのか」を問うことなく、テクノロジーがより増えることは常に良いことだと信じているのです。
ですから、科学が取るべき方向とは、人間の目的、何が良い人生や良い社会を作るのかについてのより深い理解によって導かれるべきです。それが宗教や哲学の貢献です。それは科学がその中で機能すべき道徳的、倫理的な枠組みを提供します。
私たちはこの二つを再統合する必要があります。混同するのではなく、それらが完全な人間の人生において、別個のものでありながら必要な部分であると認識することです。もし科学だけに頼るなら、非常に強力でありながら「方向性のない社会」に行き着くことになるでしょう。
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