「研修旅行冒頭の開会礼拝で牧師自身が行っている辺野古への移設工事に反対する抗議活動の説明が少なくとも 2019年、2025年、2026年の複数年にわたり行われていた」(7ページ)
同志社における「開会礼拝」とは、学校行事が行われる際にとりおこなわれる宗教儀式だ。同志社国際では研修旅行の出発式で行われているもので、学校は2018年3月からこの開会礼拝を牧師に「キリスト教のつながりから」(1ページ)依頼している。
学校側はこの依頼に「政治的意図」はないと説明しているが、すでにこの時点で牧師はさまざまなメディアに取り上げられていた「有名反基地運動家」だったので、この釈明は苦しい。しかも、大学生を対象として「乗船ツアー」をしていた、という動かし難い事実がある。
亡くなった牧師は、沖縄キリスト教学院大学・短期大学内にかつてあった「沖縄キリスト教平和総合研究所」において、2010年7月から2021年3月までコーディネーター(嘱託研究員)として平和研究活動をしていた。
実は牧師が在籍している間、この沖縄キリスト教平和総合研究所では、全国の大学生を対象にして「沖縄・長崎・広島から平和を考える学び合い」という平和学習を主催していたのだが、その中には「乗船ツアー」があった。
例えば、2017年8月23日から26日にかけて行われていた「沖縄・長崎・広島から平和を考える学び合い」のスケジュールの中には、「辺野古見学・天気が良ければ乗船」としっかりと明記されている。これには当時、嘱託研究員だった牧師が関わっていた可能性がある。
2019年8月、キリスト教主義の某大学のホームページには、この平和学習に参加した学生のレポートが掲載されている。そこにはちゃんとこの牧師が学生たちを「引率」したと明記されており、しかも学生たちが今回事故を起こした「不屈」の運転席に座った記念写真も掲載されている。
このように既に大学生を対象とした「乗船ツアー」を行なっていた牧師に対して、研修旅行の開会礼拝を依頼すれば、どんな方向の「平和学習」が説かれるのかはわかりきっている。
同志社国際が文科省に対して行った「キリスト教のつながりで、開会礼拝を依頼した牧師がたまたま反基地活動家だった」というような釈明はさすがに無理があるのではないか。
……ということを指摘すると、「反基地は沖縄県民の総意だ」とか「事実を捻じ曲げてでも反戦平和運動を潰したいのか」というようなお叱りがビュンビュン飛んできそうだが、本稿が問題にしているのはそういう話ではない。
戦争を繰り返さない、沖縄の豊かな自然を守るため、などさまざまな考えで、このような運動を行うのは自由だ。一緒に闘争する同志を増やすために、ビラを撒いて呼びかけたりするのだって、どんどんやればいいと思う。
ただ、だからといって、なんでもかんでも許されるわけではないし、ましてや教育現場にズカズカと乗り込んで行って、まだ世の中のことを知らぬ子どもたちに「私たちの活動こそが正義」などと刷り込むのは、さすがにやりすぎだと言いたいのだ。
文科省が「政治的中立性違反」と指摘したように、同志社国際が牧師への依頼で行った平和学習は「イデオロギー教育」以外の何者でもない。
もっと言ってしまうと、反戦平和運動を頑張っている人々が憎んでやまない戦前日本の「軍国教育」と変わらない。







