落合:現代人は最近、こういうものとよくおしゃべりをしています。私もそうですが。AIとこうしておしゃべりしている状態というのは、孤独なのか、それとも孤独ではないのか、よくわかりません。
人のおしゃべりの起源は、サルの行動に見られる毛づくろいだという話があります。かつて毛づくろいは生身の人間同士がするものでした。シラミを取ったり、肌を触れ合わせたりして、群れの仲間との絆を確認していた。けれど人が文明を発達させていくと、毛づくろいのかたちは遠隔の電話になり、FAXとなり、Eメールとなり、SNSとなり、さらにここへきて相手が人間ではなくAIになってきました。
人はいまや他者を介在させず、ずっと計算機を相手に毛づくろいし続けるようになっています。肌の触れ合いも、体温や息遣いを感じることもないところで、情報のやりとりだけが無限に続いていく。
テキストや合成音声だけで精神的なグルーミングを行なっているのは、文明論的にはかなり不思議な状態だなと思います。相手が心を持っていなくても、脳が「ケアされている」と錯覚すれば、それで充足してしまうのかもしれない。
AIの回答を無条件に
受け入れてしまうワケ
田中:人間ならぬものと対話しているというのは、フィクションや物語自体と対話できるようになっていると言えるのかもしれませんね。神と対話するようなこととも近いでしょうか。神話や民話の世界を思わせます。
神との対話といっても、自分の無意識の深層から汲み上げたものを神の声として聞くような内的なものではなく、自然そのものの意思の声を聞くといった外的でアニミズム的(編集部注/全てのものに魂が宿っているという考え)なものが、より近い。森に入ったら妖怪がいると言われたりするようなことです。
落合:物理学者であり随筆家でもあった寺田寅彦はそうしたアニミズム的なものを、「作業仮説」として説明していました。作業仮説とは、厳密な科学的根拠に基づくものではなく、経験則や伝承、直感的な理解に基づいて、実際の行動や判断を導くための仮の説明や前提のことです。
たとえば落雷の危険性に言及するときに、どんな言い回しを使うか。「落雷のときに外に出ると、雷様にやられてしまうよ」とアニミズム的な言い方をするのか、「高電圧がかかると、電流が流れて身体が焼けてしまうんだよ」とか科学的事実に則して言うべきか。
『堕落論 住めば都のディストピア』(田中慎弥、落合陽一、徳間書店)
どちらも落雷時の危険性を伝えることにはなりますが、アニミズム的なほうは、落雷による被害という現象の本質を科学的に説明し切れているものではなく、あくまでも作業仮説となります。それでも生活上の規範としてはじゅうぶんに機能するし、雷様を持ち出したほうがわかりやすいのはたしかです。
いまAIが遍在して、AIに語りかければある一定の返事を得られるというのは、科学的な説明ではなく、雷様などの比喩のみでものごとを教えてもらっている状態です。
かつて人々が柳の枝が揺れるのを見て、「幽霊のしわざだよ」と説明され、納得していたのと同じように、現代の私たちは「AIが何でも教えてくるからね」と聞いて納得するしかないのでしょう。







