「見える形」にしなければ存在しない時代へ
しかし、今は違います。転職が当たり前になり、キャリアは社内で完結しなくなりました。個人の自由度は高まりましたが、その一方で、別の問題が生まれました。「見てくれている人がいる」だけでは足りない。「見える形にしておかないと、存在しなかったことになる」のです。
その結果、仕事そのものよりも、仕事の“見せ方”が価値を持つようになりました。実績の切り取り方、プロフィールの整え方、外向けの語り。こうした物語が、その人の人材市場での価値を左右するようになったのです。
そして、少し困った現象が増えました。複数人で進めた仕事を「私が推進しました」と語る人。泥臭い調整をした人ではなく、最後に説明して成果の代表者になる人。中身が十分でなくても、語りだけが先に立派になっていく人。
私はこういう人たちを、少し意地悪に「口先だけの人」と呼びたくなります。
昔も口先だけの人はいました。しかし、同じ組織にいれば、いずれ内実が露見した。ところが今は違います。露見する前に場所を移れる。露見する前に肩書を更新できる。露見する前に発信でイメージを作れる。口先で語ったことの寿命が延びてしまったのです。
しかも日本企業は、長期観察型の目利きには慣れていても、短期選抜型の目利きには慣れていません。この空白に、口先のうまい人が入り込みます。そこで見られるのは「本物性」そのものではなく、市場で流通しやすい物語です。
能力は単体で存在しない
サッカーを見れば、この難しさはよくわかります。サッカー選手の働きぶりは、会社員よりはるかに見えやすい。試合映像があり、スタッツ(実績などの統計数字)があり、観客も専門家もいる。それでさえ移籍は失敗します。
なぜか。能力は単体で存在していないからです。前のクラブで点を取れていたのは、よいパサー(精度の高いパスを出す人)がいたからかもしれない。守備の負担を誰かが肩代わりしてくれていたからかもしれない。監督の戦術が弱点を隠していたからかもしれない。
能力は、関係性と文脈の中で発現するものです。まして会社員の働きぶりは、試合映像のようには残りません。前職でその人が本当に何をしてきたのかは、外からはほとんど見えません。
だから必要なのは、「すごそう」なのかどうかではなく、成果をできるだけ環境要因、チーム要因、本人要因に分解することです。しかし、それはもちろん難しい。だから現実には、見た目や話し方や肩書が効いてしまうのです。







