「弁護士時代、重要な事実に争いのあるケースでは、依頼者に黙秘を勧めていました。しかし、当時の私は、黙秘がこんなにも孤独でつらいものと想像できなかった。依頼者の方々にも家族がいて、友人がいて、仕事があった。あのとき、本人の孤独と大変さにもっと寄り添うことができたのではないかと、自らが黙秘を強いられたときに反省せずにはいられませんでした」

 2023年、犯人隠避教唆事件では最高裁の上告棄却によって有罪判決が確定し、弁護士資格を失った。現在は、取調べの違法性をめぐる国家賠償訴訟で最高裁の判断を待っている。

「誰も責任を問われない」
人質司法の背景にある問題とは?

取調室のハシビロコウ江口氏の著書『取調室のハシビロコウ』(時事通信出版局)

 江口さんは勾留体験を一冊の本『取調室のハシビロコウ』(時事通信社)にした。馴染みのない世界の話であるが、版を重ねている。執筆理由をたずねたところ、「すごいものを見た。だからみんなに伝えたかった」とシンプルな答えが返ってきた。

「大航海時代以降のヨーロッパでは、漂流記がよく読まれていたようです。未知の世界への好奇心と恐怖が織り交ぜられたエンターテイメントとして。逮捕・勾留された被疑者が陥る精神的・物理的環境については、弁護士として知っているつもりでしたが、自分自身が逮捕されてからは、こんな世界だったのかと驚きの連続でした」

「だから私にとってはとてつもない不幸ですが、みなさんには一種の“漂流記”として伝えたかったのです」

 検察官による違法な取調べを訴えた国家賠償訴訟では、検察官の発言に対して、一審二審で人格権侵害が認められた。ただ江口さんは、「真の問題は個々の発言の違法性ではない。黙秘権を行使した後も取調べを続けたこと自体の違法性を問いたい」と最高裁に上告した。

「延々と続く取調べだけでなく、勾留決定や勾留延長、保釈、それに対する不服申し立て。一つ一つの判断が、一人一人の人生を大きく左右します。その重みが十分に意識されていないと感じています」

「この背景には、『誰も責任を問われない』という、検察や裁判所に長年にわたって温存されてきた無責任の構造があります。実際、事件に関わった検察官たちは、取調べを担当した検事や起訴を担当した検事など、東京地検や大阪地検の特捜部に栄転しています。国家賠償訴訟で違法だったと認められるような取調べがあったのに、です」

「違法な刑事手続が行われたなら、その責任を明確にしないと、この国の刑事司法はよくなりません。私の国家賠償訴訟では、黙秘する人に対して違法な取調べが行われないよう、黙秘後の取調べについてのルールを明確にすることを最高裁に求めています」

 陸の上での250日間の“漂流”から帰還した男は、もう沈黙することはない。

江口大和(えぐち・やまと)/1986年長野県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、東京大学法科大学院を修了。2014年に弁護士登録した後、主に刑事弁護に携わる。18年に犯人隠避教唆の疑いで逮捕され、23年に執行猶予つきの有罪判決が確定。検察官による違法な取調べにより黙秘権などを侵害されたとして、22年に国家賠償訴訟を提起。現在、最高裁に上告中。