「車種も増えました。ブラジルやインド、ロシアなどで工場を増強し、(低価格車ブランド)『ダットサン』も復活させた。(中略)戦線拡大によって、結果として車齢が長くなってしまい、競争力を落としてしまった」(2020年6月19日付日本経済新聞電子版「日産元COO、志賀氏が語る『後悔とエール』」)。
同氏のこの考えはその後も変わらず、2025年3月18日付「日経ビジネス」のインタビュー記事「元日産COO志賀氏『ゴーン氏との拡大路線の後始末をできず、申し訳ない』」でも同様のことを述べている。
販売台数を大きく減らした原因を今の日産自動車にも聞いたところ、「日産パワー88で実力から乖離(かいり)した無理な目標を設定した。それを起点に、その後は社内に混乱が生じて、市場の変化に追いつけなかった」という分析だった。同社社長のイバン・エスピノーサ氏も「2011年に『日産パワー88』といって世界で800万台の生産を目指す計画を発表した。
近岡 裕『日産 最後のサバイバルプラン 転落の真因と復活への提言』(日経BP)
結果的に600万台にすら達しなかったむちゃな計画だったわけだが、思えばメキシコや米国でも無理のある売り方をさせられた」(2026年3月28日付日本経済新聞電子版「日産、名門復活へ『企業文化の刷新こそ本丸』エスピノーサ社長」)と当時を振り返っている。
こうして日産自動車は、特に大きな収益源である米国市場で無理な値引き販売を余儀なくされ、利益を減らしてブランドも毀損(きそん)した。
かつてトヨタ自動車も、渡辺捷昭氏が社長の時代(2005~2009年)に「世界一になる」という看板を掲げて、販売台数を積極的に追う拡大路線に突き進んだことがある。ところが、2008年に発生した世界的な金融危機「リーマン・ショック」の影響を受けて、4610億円の営業赤字および4369億円の最終赤字を計上。メディアには「トヨタショック」の文字が躍った。
さらには、開発と生産の両面での無理がたたって2009~2010年の大規模リコール問題へと発展した。この時の反省からトヨタ自動車は販売台数の明言は避け、代わりに、次の社長に就任した豊田章男氏(現会長)は「いいクルマをつくろう」というスローガンを打ち出した。「良いクルマとは何かと皆で懸命に考えて製品を造る。販売台数は、その結果として後から付いてくる」という考え方に変えたのだ。これが、今なおトヨタ自動車の中で効力を発揮している。







