戸高:「戦史叢書」が出来上がった後、内部用として、「戦史編纂沿革・履歴・索引」と題した謄写版刷りの冊子が作られました。編纂官の履歴や刊行スケジュール一覧などをまとめている。そういう部分はしっかり残している。

「戦史叢書」を出したという努力は、たしかに「よくぞやった」と言うべきでしょう。あれがなかったら、太平洋戦史の研究の足がかりがまったくなくなります。けれども、やはりあれは「陸軍戦史」なのです。

保阪:初期の防衛研究所にいた彼らは元々参謀だったから、史料を作る、まとめるなどはお手のものですからね。史実に対するさまざまな配慮や忖度、言葉選びも的確だったでしょう。

戸高:ですから、海軍は海軍でやりたかったという心情もよくわかるのです。日清戦争以来、戦史は陸海軍別々に編纂していましたから。陸軍の方が所帯は大きいから当たり前だということもありますが、「戦史叢書」102巻のうち、海軍関係は30巻ぐらいしかありません。全体の量から見て3割ぐらいしか発言権を持たされていない。

 配分の妥当性云々よりも、海軍としてはまだ言い足りない、言っておかねば気が済まないという気持ちが残っていたということでしょう。

「戦史叢書」の編纂官として海軍側から入っていたのは、内田一臣(注4)さんや野村實(編集部注/1922~2001年。海軍軍人、最終階級は海軍大尉。軍事史学者)さんでした。陸海軍の言い分の板挟みになって、苦労したと思います。

陸軍と海軍の間では
戦争の呼称さえ違った

大木:直接の上司は陸軍で、そこに海軍の先輩で太平洋戦争中に責任ある立場にいた人が横から口を出してくる。自分に都合の悪いことを書くのではないかと警戒して、協力したいと称して、毎日のように戦史室に来た人もいたそうです。

 そのように考えてみると、海軍側が、「戦史叢書」では十分に言いたいことを言えなそうだと読んで、その分を民間で積極的に出していったという面もあるかと思います。それこそ、奥宮正武・淵田美津雄の『ミッドウェー』のように。

戸高:史料調査会でも、全18冊になった「海軍戦史」を別に作ったのです。それは謄写版刷りを製本した形のものしかありません。防研(防衛研究所)に1組あるはずです。市販はしませんでした。それが「戦史叢書」の中の海軍篇のベースになったのです。

保阪:陸軍側のチェックが入っていない、その「海軍戦史」の方には、海軍の意図や思いが残されていそうです。

『虚構の昭和史 海軍善玉論、石原莞爾名将論の陥穽』書影虚構の昭和史 海軍善玉論、石原莞爾名将論の陥穽』(保阪正康、戸高一成、大木 毅、角川新書)

戸高:戦争の呼称についてさえ、陸海軍の気持ちは違うのです。

 戦争が始まった直後に、この戦役の呼称をどうするかという会議が陸海軍と政府で行われています。陸軍は直ちに「大東亜戦争」と主張する。海軍は「太平洋戦争」と主張したのですが、結果的には負けている。

 戦後は「太平洋戦争」と言われるようになりました。すると、陸軍関係や一般の人が、今度は「大東亜戦争だろうが」と抵抗感を持っていた。私も「太平洋戦争」と書いて、読者に「大東亜戦争が正しいのです」と言われた経験は一度ならずあります。

(注4)1915~2001年。海軍少佐。海兵63期。戦艦「大和」分隊長、海軍砲術学校教官など。戦後、海上自衛隊に入り護衛艦隊司令官、海上幕僚長。最終階級は海将。戦史叢書『大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯』(全2巻、朝雲新聞社、1979年)を執筆。