信長の仇討ちを果たして以来、徐々に織田家中での発言力を強めていた秀吉。この盛大な葬儀を行ったことで、ほかの宿老たちから一歩抜きんでた存在になったことは間違いないでしょう。

「あざとさ」だけではなく
強運としつこさで秀吉は成功した

 以上の通り、信長没から秀吉が頭ひとつ抜け出るまでには、必ずしも計画通りに進んではいなかったことがわかります。ただし秀吉がスゴいのは、要所要所で抜かりなく戦略を立てていること。そして上手くいかなくても「次の一手」が打てることです。

 本能寺の変の時、いち早く毛利と講和し「中国大返し」ができた。光秀が討たれたのは戦場ではなく、敗走中に地元の農民の手によって。こうした点で、秀吉は「運」も持っていたといえます。

 たぐい稀(まれ)なる強運に加えて、その後の家中での争いにおいて、実に巧妙な手順を繰り返し講じたこと。あざとく、そしてしつこく。だからこそ秀吉は、見事にのし上がっていったのでしょう。

清洲城から徒歩15分ほどの場所にある総見院安土城・伝二ノ丸の織田信長公本廟。1583(天正11)年に秀吉が建立したと伝わる。信長の刀や烏帽子などが埋納されているとか 撮影:今泉慎一(風来堂)

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