清須会議の結果、単独の名代とすることはせず、秀吉、勝家、長秀、恒興ら四宿老を中心とする合議制で三法師を支えていくことに決まります。つまり、この時点で秀吉一人が実権を握ったわけではありません。一見、秀吉の目論見は外れてしまったように思えますが……。
合議制だったはずなのに
秀吉主導で信長の葬儀を決行
その年の10月、京都・大徳寺で大々的に信長の葬儀が行われます。この葬儀は、秀吉が主導して開かれました。喪主は、秀吉の養子となっていた信長の四男・羽柴秀勝でした。葬儀に参列した人数はおよそ3000人。羽柴秀長が約1万人の兵で警護したといい、目を見張るほど荘厳だったといわれています。
秀吉が信孝に宛てたとされる書状では、「信雄や信孝、ほかの宿老なども誰も葬儀を出そうとする様子がなかったため、自分が執り行った」と主張しています。
本来なら合議制で、ほかの宿老たちとも話し合ったうえで葬儀の準備を進めるべきところを、秀吉は自分主導で進めてしまったのです。勝家や信長の重臣であった滝川一益などは、葬儀の開催に異議を唱えた、という説もあります。
この葬儀に、柴田勝家の姿は見えませんでした。葬儀が行われた旧暦10月といえば、現在の11~12月。勝家の居城・北庄城がある北陸・福井は、既に雪が降り積もっていてもおかしくありません。京までの道中にもいくつか、豪雪で知られる峠もあります。秀吉がもし、開催時期まで差配していたとしたら。
福井県福井市の北庄城跡に建つ柴田勝家公像。現在ではビル街の中に、往時の石垣や堀などごく一部の遺構が残る 撮影:今泉慎一(風来堂)







