四宿老が臨んだ清須会議で
秀吉が推した人物とは
山崎の戦いから14日が経った6月27日、尾張の清須城にて会議が開かれました。柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の四宿老が話し合いに臨みました。
清洲城。現在の模擬天守は犬山城をモデルにしたとされる。所在地も当時とは異なる 撮影:今泉慎一(風来堂)
江戸時代初期に書かれた『川角太閤記』には、会議の様子が細かく描写されています。
それによれば、後継者の座を争ったとされるのが、信長の次男・信雄と三男・信孝。そして本能寺の変で果てた長男・信忠の嫡男である三法師(のちの秀信)です。
信雄は信長が健在だったころ、行事などの際に信忠に続く位置にいたとされますが、戦などでの失策も多く、信長にひどく叱責されることもありました。一方信孝は、四国攻めにあたり大軍を任されるなど、信頼が厚かった様子がうかがえます。柴田勝家も、聡明な信孝を後継者に推したといわれています。
そこに「待った」をかけたのが秀吉です。秀吉は「三法師こそが家督を継ぐのにふさわしい」と主張します。
柴田勝家像。桃山時代~江戸時代初期の作とされる。作者不詳、個人蔵 Photo:Wikimedia Commons
提案後の話し合いのさなかに
秀吉はなぜか一時的に中座?
順当にいけば信雄、あるいは信孝が後継ですが、そこに秀吉が三法師を推薦。確かに嫡男・信忠の長男なので正統ですが、当時の三法師はまだ3歳です。
しかし、そこに秀吉の深謀遠慮がありました。幼い当主には「名代」、つまり当主に代わって政務を担う家督代行者が必要です。あくまで家臣として主家を立てつつ、陰で実権を握りたい。そのためには既に成人している信雄や信孝ではダメだ、と考えたのでしょう。
話し合いが膠着(こうちゃく)すると秀吉は、腹痛を理由に一時的に会議の場から離れます。







