秀吉が席を外している間に、秀吉に同調していた長秀が、三法師にこそ正統だと勝家を説得しました。それに池田恒興も賛同したとされています。
秀吉の意見が通ったのは、山崎の戦いで、信長の仇・光秀を討ち果たしていたことも大きかったのでしょう。
また、「一時的に席を外す」というのは、意見が割れた会議での心理戦として、なかなか有効な手立てです。強く主張しておいて、いったんブレイク。他のメンバーに考える時間を与えることで、「あいつの言うことも一理あるな」と思わせるのです。ただただ強弁されるより「腑に落ちる」感じがします。もしかしたら「腹痛」は嘘だったのかも……。
いずれにせよ、秀吉の目論見通り、三法師が織田家を継ぐことになりました。
三法師(1580–1605)は、元服して織田秀信と名乗った 東京大学史料編纂所/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
清須会議が行われる前から
「後継=三法師」と決まっていた説
以上の清須会議の経緯が記されている『川角太閤記』は江戸時代に書かれたもので、創作の部分も多いとされています。近年の研究では、実は、三法師が選ばれることは既定路線だったのではないかという説が有力です。
当時の織田家は、信長からすでに信忠へ家督が譲られていたため、後継は信忠の嫡男である三法師に当初から決まっていたというのです。そのため、清須会議で争われたのは、実は家督相続ではなく、三法師が成人するまでの名代(=後見人)の座だったのだ、と。
会議が清須城で行われたのも、三法師が岐阜城から清須城に避難していたため。後継者となるべき三法師のもとに家臣たちが集まった。主君のもとに家臣が馳せ参じた、というわけです。







