「羽柴長秀」から「羽柴秀長」へ~名前に込められた意味

 そして、この時期に見逃せないのが小一郎の名前の変化です。

 9月12日付の美濃の西園寺に対する禁制には、小一郎自身がなんと「秀長」と署名しているのです。

 それ以前の秀長は、信長から「長」の字を与えられ、「羽柴長秀」と名乗っていました。しかし、この頃には、兄秀吉の名前を上に冠した「羽柴秀長」へと改名していたらしいのです。

 これは、単なる改名ではありません。

 信長の後を継ぐ天下人は誰か、という争いが続いていた中で、秀吉の「秀」の字を信長の「長」の字の上に置くことは、「これからの天下人は秀吉である」と世間に知らしめる政治的な意味を持っていたといえるでしょう。

 しかも、これは、信長の子である信雄がまだ健在だった時期に行われているのです。この改名が含む意味は大きいと言わざるを得ません。

羽柴長秀(小一郎)は「秀長」に改名する (C)NHK羽柴長秀(小一郎)は「秀長」に改名する (C)NHK 拡大画像表示

小牧・長久手の戦いの裏側で、小一郎が果たした役割

 そして10月、秀吉はついに信雄のいる伊勢の長島城へと攻撃の矛先を集中させました。

 危機を感じた信雄は、家康に援軍を要請。家康は清洲城まで兵を進め、酒井忠次や石川数正らを救援に向かわせます。

 しかし、秀吉軍の急速な進撃を前にした信雄は、最終的にとんでもない決断を下してしまいます。少数の供だけを連れて自ら秀吉の陣営へ赴くと、家康に相談することなく秀吉と講和してしまったのです。

織田信長の息子・信雄については、前回の記事で詳しく解説している(C)NHK織田信長の息子・信雄については、前回の記事で詳しく解説している (C)NHK 拡大画像表示