The Legend Interview不朽
「週刊ダイヤモンド」1976年1月1日号に経営学者P・F・ドラッカー(1909年11月19日~2005年11月11日)と東芝会長で経団連会長の土光敏夫(1896年9月15日~1988年8月4日)による対談が掲載されている。モデレーターは経営学者の壹岐晃才だ。

 第1次石油危機後、日本が「狂乱物価」(74年の消費者物価上昇率23.2%)と戦後初のマイナス成長(74年度実質GNP〈国民総生産〉)に見舞われ、高度経済成長の終焉と環境資源の有限性を突き付けられていた時期だ。それまでの「経済成長=豊かな社会」という前提を疑い、成長を止めた安定社会(定常状態)を目指すべきだという「ゼロ成長論」が、日本のみならず世界的に広がっていた。

 それに対し、ドラッカーは「ゼロ成長論は金持ちの戯言」と喝破する。彼は、開発途上国の人口が労働市場に加わる“人口津波”を根拠に、成長停止論は先進国だけのぜいたくな議論だと指摘するのだ。この見立ては、その後の中国・インドをはじめとする新興国の工業化と、今日の「グローバルサウス」の台頭を思えば慧眼といえる。

 また、ドラッカーは日本の労働力人口の伸び悩みを問題視し、女性の労働市場への進出の遅れを成長制約として名指ししている。この指摘も同様に時代を先取りしている。

 土光も「適切成長」論を唱えている。ゼロ成長でも高度成長でもなく、日本に見合った成長率(政府検討の6%程度)を模索すべきだという主張は、実際にその後の日本が狂乱物価を鎮静させた後に歩んだ実質4~5%前後の安定成長期を言い当てている。

 そして最大の読みどころは、土光自身による「国家行政から国家経営へ」という問題提起だろう。政府の肥大化とマネジメント不足を憂えたこの発言は、単なる評論に終わらなかった。土光は81年、自ら第2次臨時行政調査会(通称・土光臨調)の会長に就任し、「増税なき財政再建」と国鉄・電電公社・専売公社の三公社民営化を答申し、それぞれの実現に道筋を付けた。この対談はその布石を、当事者自身がまだ経団連会長だった時点で語っていた記録でもある。

 もっとも、日本経済はその後インフレを克服する一方、バブル崩壊後は逆にデフレと長期停滞という、当時2人が想定しなかった課題に直面する。それでも、ドラッカーの結びの一言「さまざまな障害はあっても、それでも日本は強いのです」は、安定成長からバブルとその崩壊、そして低成長期を経てなお存在感を保つ日本経済の姿を、半世紀前から言い当てていたようにも読める。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

利潤というものの持つ意味が
大きく変わってきている

壹岐 今日は、ドラッカーさんと土光さんに、いろいろお話を伺っていきたいと思います。ドラッカーさんは1939年に『「経済人」の終わり』(東洋経済新報社刊)という本をお書きになり、西欧社会を支えてきた指導原理が揺らぎ始め、その揺らぎが全体主義を生み出してくる、ということを強調されていたように思います。

 それから、もうずいぶん時間がたつわけですが、現在また、自由経済システムに対して、さまざまな批判が起こっています。この批判が一体何を生み出すのか、また自由経済システムの行方と課題は一体どういうものであるのか、その辺をお二人に伺ってみたいと思います。まず、初めにドラッカーさんから……。

「週刊ダイヤモンド」1976年1月1日号「週刊ダイヤモンド」1976年1月1日号

ドラッカー 私は三つほどの問題を提起したいと思います。それは、私がここ数年来抱いている懸念を申し上げるということになると思いますが、まず第一は、企業制度というものの内部的な問題、もう一つは、経済的現実と政治的現実の間にある緊張、それから3番目は、道義的基礎とでもいうべきものの問題、この三つです。

 まず第一の企業制度内部の問題ですが、この企業制度というものの中において、企業は経済的な業績を上げるために資本を動員したり、用いているわけですが、その場合、伝統的な概念が問題になるわけです。例えば、利潤というものの持つ意味が、大変に変わってきているというのが、その一つです。

 経済的現実と政治的現実との間にある緊張関係では、最近、経済が世界経済というべきものと相互依存の関係をとみに深めている、ということと大きな関係があります。そして、その一方で、政治的制度というものが、相変わらず国家というものに依存しています。