土光敏夫・東京芝浦電気社長
 1964年10月、東京オリンピックが閉幕すると、高度成長に沸いていた日本は一転、深刻な不況に見舞われた。大会に合わせて建設された東海道新幹線や首都高速道路などの公共投資や、五輪観戦のためのテレビ需要などによる「オリンピック景気」が一段落したこともあり、企業業績の悪化が顕在化したのである。まず、64年12月にサンウエーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が、65年3月には山陽特殊製鋼が当時戦後最大とされる負債総額500億円で、それぞれ倒産した。こうした中、株式市場が低迷し、証券界を襲う。特に65年5月には大手の一角である山一證券の経営危機が報道されると、株式市場は恐慌状態に陥った。

 すると日本銀行は、山一證券に対して事実上無担保・無制限に特別融資することを決定(日銀特融)。続いて7月、戦後初となる赤字国債を発行し、信用不安の拡大を抑え込んだ。これを受けて、株価は上昇に転じ、重工業を中心に企業業績も回復に向かった。

 かくして、「昭和40年不況(証券不況)」と呼ばれる事態はわずか1年間で収束し、その後の日本経済は65年から70年にかけて57カ月連続の好況(いざなぎ景気)を記録することになる。

 今回紹介する記事は、こうした展開をまだ知る由もない「ダイヤモンド」65年8月2日号に掲載された、土光敏夫(1896年9月15日~1988年8月4日)のインタビューである。土光は石川島重工業(現IHI)社長を経て、この年に経営難に陥っていた東京芝浦電気(現東芝)の社長に招かれたばかりである。当然ながらインタビューのテーマは、東芝の再建の行方と、目下の不況をどう乗り切るかにある。土光は「輸出以外に再建の道なし」と明確に持論を開陳している。

「ミスター合理化」と異名をとる土光の辣腕により、翌66年には早々に東芝は再建軌道に乗る。土光はさらに74年には経済団体連合会(経団連)の第4代会長に就任、2期6年にわたって財界総理を務める。81年には鈴木善幸内閣の第2次臨時行政調査会長に就任し、行財政改革を推し進めた。(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

政府が早く対策を打ち出さないと
世間は大変なことになる

「ダイヤモンド」1965年8月2日号1965年8月2日号より

――今度の不況に対し、政府もいろいろ手を打とうとしていますが、不況感は募るばかりです。いままでは、希望的観測で、秋になったら良くなる。来年の3月になったら良くなるだろうといわれてきた。そして、各企業は、経費の節減とかなんとか細かい手を打ってきているが、最近になって、お先真っ暗というか、希望的観測も引っ込みました。経営者自体が自信を失いかけているような感じです(聞き手は当時のダイヤモンド社社長の寺沢末次郎)。

 自信もなにも、動けないんだからしようがない。打つ手といったら、値段を下げるぐらいのことしかないんだから。

――それじゃ自分で自分の首を締めるようなものですからね。こんな状態が、これから1年も続いたら大変ですね。