秀吉の長男を産んだ? 謎多き女性「南殿」
南殿は、秀吉が長浜城主だった時代に、その名が確認できる女性です。
名前の由来は、長浜城の南側に独立した屋敷を与えられていたため、と考えられています。ただし、彼女の出自や生涯については、ほとんどわかっていません。
ところが、この女性をめぐって近年注目されているのが、秀吉の長男・石松丸との関係です。天正4年(1576)の「竹生島奉加帳」には、「石松丸御ちの人 南殿」と記されています。「御ちの人」は石松丸の乳母を意味すると考えられます。
さらに、南殿は、寧々や秀吉の母・なかとは別に記載されています。そこから、南殿は、長浜城内に独立した屋敷を持つ、秀吉の妻の一人だったのではないか、そして、石松丸は南殿が産んだ、秀吉の子ではないか――という説が提起されています。
もしこれが事実なら、「秀吉には茶々との間にしか実子がいなかった」という従来のイメージを大きく揺るがすことになります。
ただし、この説には異論もあり、現段階で確定した事実とはいえません。南殿は「秀吉の長男を産んだ可能性のある女性」として見るのが適切でしょう。
長浜城(滋賀県長浜市) Photo:PIXTA 拡大画像表示
「姫路殿」と呼ばれた織田家の女性
中国攻めのころ、秀吉は長浜城から姫路城へと本拠を移しました。その姫路城に住んでいた妻が、「姫路殿」です。
彼女は織田信長の弟・織田信包の娘とされています。秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った後、姫路城は弟の秀長に譲られ、秀吉は大坂城へ移ります。このとき姫路殿も秀吉とともに移動しました。
ところがその後、姫路殿は秀吉と離縁することになります。『伊勢国司伝』には、姫路殿が実家に戻った際、母親が「秀吉はもともと織田家の家臣だった」として、その身分の低さを嫌って、娘を秀吉のもとへ返さなかったために離縁になった、という話が記されています。
ただし、この説明には疑問も残ります。姫路殿が秀吉に嫁いだのは、秀吉がまだ織田家臣として中国攻めをしていた時期です。秀吉が天下人に近づいた段階になって突然「そんな男に娘を嫁がせておけない」と考えるのは、少し不自然です。







