また、秀吉は、竜子が有馬温泉へ一人で湯治に行くことになった際にも、「悪い虫がつかないように」と心配する手紙を送っています。秀吉の嫉妬深さをうかがわせる、なんとも人間臭いエピソードです。

 秀吉の死後も、竜子は生き残って京に住み、寧々とも交流しました。大坂の陣後には、処刑された秀頼の子・国松の遺体を引き取り、墓を建立しています。

少女から「加賀殿」へ――前田利家の娘、摩阿

 前田利家の娘・摩阿は、元亀3年(1572)生まれ。11歳のとき、柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約しましたが、翌年の賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城し、十蔵が自害すると、摩阿は、秀吉に見初められ、秀吉のもとへ移ることになります。

 天正13年(1585)、秀吉が関白となり聚楽第を築くと、摩阿にも御殿が与えられました。その屋敷が聚楽第の天守にあったことから、「聚楽天守殿」とか、加賀の前田家の出身であることから、「加賀殿」などとも、呼ばれるようになります。

 秀吉の死後、摩阿は、公家の万里小路充房と再婚し、子をもうけました。しかし、慶長10年(1605)、34歳という若さで亡くなってしまいます。

秀吉は、前田利家(演:大東駿介)の娘も妻にしている (C)NHK秀吉は、前田利家(演:大東駿介)の娘も妻にしている (C)NHK 拡大画像表示

信長の娘「三の丸殿」

 最後は「三の丸殿」です。その名の通り、伏見城の三の丸に御殿を与えられたことから、こう呼ばれています。

 彼女は、織田信長の娘とされていますが、名前や、何番目の娘なのかについては、諸説があり、詳しいことはわかっていません。秀吉の死後、公家の二条昭実と再婚しましたが、慶長8年(1603)、出産が原因で亡くなっています。

 三の丸殿が亡くなった際、信長の孫にあたる織田秀信が、高野山で供養を行ったことが知られています。