殺した獲物に向ける
猟師たちなりの敬意

「悼む」という言葉は、辞書によれば「人の死を悲しみ嘆くこと」らしいが、猟師をやっていると何も人にだけ当てはまるわけではないように思える。

「悼む」は動詞であり、能動的に行う行為だ。生き物をいっぱい殺した猟師がどのように悼むのか、それは生命という考えても凡そ答えが出ない、しかし後戻りの出来ない存在に対して、どう折り合いをつけて生きて行こうとするかのケジメなのではないだろうか。

「俺は殺したあと、こう悼んでるぜ」という言葉は、対外的に「こうしている俺、偉いだろ」とドヤっている可能性がある為、排除する。山奥でひっそりと、その死に向き合った時のエピソードをポロッと吐露してくれた猟友のエピソードだけ、紹介する。

 獲物を止め刺ししたあとにはナイフに血糊がこびり付く。血糊はサラサラとした鮮血だけとは限らず、消化器官や静脈などを刺したあとにこびりつくそれは、わざわざ糊の字を使いたくなるほどにネットリとしている。

 遺骸の体表でこれを拭く猟師も少なからずいるが、師匠の阿部さんは必ずこの血糊を雪や水、持参した布巾等で拭う。阿部さんにその理由をソッと訊ねると、「自分がもし殺されたあと、その血を身体で拭われたら嫌だろう」とハッキリ返ってきた。動物と人間の境界が無くなりかけている良い言葉のように私は感じた。

 また「獲物を二度殺すな」とも仰る。

「一度殺してるんだ。肉になって誰かの口に入った時に、この肉不味いと言われたらこの命に申し訳が立たない。だから必ず美味い肉にするんだ」。これは阿部さんがご自身の師匠から授かった金言らしい。

「獲物を二度殺すな」
先輩猟師たちの流儀

 同じ猟友会の仲澤さんは、年間50頭近くの鹿を獲る。だが、全てを食べ切れる訳ではない。残酷なようだが、社会から個体数管理の責も請け負っている猟友会は、こういう働きをする猟師がいないと駆除も追い付かない。

 ある日のこと。雪山で私が鹿を獲った際に、鹿の足を持って雪上を引きずり軽トラまで運ぼうとしていた。地表はフカフカの雪が積もっている為、肉は傷まない。その私に向かって仲澤さんがわざわざロープを投げ「前足と頭を縛って引きずれ」と言い放った。「足ブラブラさせてたら、見た目に悪いだろ」。

 私と2人だけの山でこう仰った理由は、鹿を人間の為にいくらでも犠牲になって良い存在と割り切っている訳ではなく、死してなお辱めを受けないように、という心遣いなのだと悟った。

 私が猟師になるきっかけになった本『ぼくは猟師になった』を執筆なさった京都の罠猟師、千松信也さんは、一度だけお会いしてお話を伺った際に「有害鳥獣駆除はやらない」と仰った。理由を聞くと「獣は猟期(秋から冬)が一番美味い」と仰ったあとに「それに体表にスプレーするのは……」と苦々しい顔でこぼされた。駆除した獣はラッカーで印をつけ、行政に提出する写真を撮る必要がある。

 一度しかお会いしていない先輩猟師の心中を勝手に憶測し書き連ねることは下品だと指摘されるかも知れないが、私はあの瞬間、野生動物に対しての愛と畏敬の念を感じた。「人間都合で穢していい存在ではない」と。

 まだ語りたいエピソードは多くあるが紙幅が足りない。また機会があれば、続きを書かせて頂きたい。