正反対の後半生を生きた
2人の対照的な最期

 北陸の片隅で慎(つつ)ましやかな立場にあった右近と対照的に、着々と出世の階段を上り続けていた行長。ですがそれも、秀吉の存命中のみでした。

 秀吉死後の豊臣政権内の対立が深まり、1600(慶長5)年には関ヶ原の戦いが勃発。行長は、4000~5000人を率いて西軍として参戦。敗軍の将の一人として捕らえられます。

 行長は京都に連行され、市中引き回しの上、石田三成、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)らとともに処刑されました。キリスト教徒であることを理由に自害を拒み、斬首されたとも伝えられています。

 その後、天下を制する者が豊臣から徳川へと代わる中、右近はさらに10年以上も金沢に居続けます。金沢城の改修で堀の掘削を指揮するなど、前田家のもとでそれなりの役割と地位を与えられていたようです。

 そのまま金沢に骨を埋めることになるのかと思いきや。右近に思わぬ事態が訪れます。それをもたらしたのは、くしくもかつての盟友、行長の命を奪った家康でした。

 1613(慶長18)年、徳川家康によりキリシタン禁令・宣教師国外追放令が発せられます。その内容は、秀吉によるそれよりもはるかに強硬なもので、宣教師のみならずキリシタン大名も国外追放の対象とされてしまいます。右近も当然、その対象でした。

 同年の正月17日に金沢を去り長崎へ向かい、海路でフィリピン・マニラへ12月に到着。そしてそれからわずか40日後、62〜63歳で亡くなりました。当時のマニラはスペインの植民地で、イエズス会宣教師が建てた教会や聖堂もありました。

マニラ1684年のマニラを描いた絵画(アラン・マネソン・マレ作) Photo:Wikimedia Commons/Public Domain

「国外追放」されたとはいっても、キリシタンの右近にとっては、安住の地にたどり着いた思いもあったのではないでしょうか。

盟友ともいうべき2人の
どちらが勝ち組だったのか

 より長く生きながらえ、ささやかながらも力を発揮する場を得て、20年以上も金沢で暮らした右近。対して秀吉の元で重責を担い、東奔西走し続けた行長のストレスはいかばかりだったか。

 主君・秀吉の突然の「バテレン追放令」によって、高山右近と小西行長、両人のその後の人生が大きく変わったことは事実ですが、はたしてどちらが人生として幸せだったのか。

 大名として出世という面で見れば、行長が勝ち組で右近は負け組のようにもみえます。しかし、あながちそうとも言い切れない気がします。