第三者委の最終会合は平日開催だったが、20人あまりの遺族や市民が見守った
Photo by Yoriko Kato

東日本大震災の大津波に襲われ約800人が亡くなった宮城県名取市閖上地区。2013年8月に始まった「閖上の悲劇」を検証する第三者検証委員会(吉井博明委員長、東京経済大教授/災害情報)の最終会合が3月24日、市内で開かれた。約7ヵ月にわたって、「市の初動対応等の避難指示(災害対策本部活動)」、数多くの犠牲者が出たとされる「閖上公民館から閖上中学校までの避難誘導(避難行動)」、「防災行政無線の故障(無線不具合)」の3つのテーマについて検証が行われ、報告概要案には、市の体制不備や事後対応、防災行政無線のメーカーに対する厳しい指摘が並んだ。

「今日出た検証報告は、あの場所にいた私から見ても、あの時の様子が書かれていると感じる」

 この日、検証委員会を傍聴しに訪れていた丹野裕子さんは頷きながら、報告概要案をこう評価した。

 丹野さんは、当時、閖上公民館の敷地内のグラウンドにいて、津波襲来と当時に公民館の2階に駆け上がりかろうじて助かった。今回の検証の現場で、多くの出来事目撃していた人物の1人だ。自身は無事だったものの、閖上中まで移動中だったと思われる長男公太君(当時13才)が犠牲になり、遺族の1人としても、検証を見守ってきた。

 最終会合には、こうした遺族や、市民達が多く集まり、報告や議論に耳を傾けた。

 ここからは、検証の3つのテーマに沿って、報告概要案の内容をまとめていく。

【検証テーマ1】
市の初動対応等の避難指示(災害対策本部活動)

 市の災害対策本部の活動や、市の事前対策状況を検証したのは、チーム1(桜井誠一主査、関西学院大講師/防災行政・災害広報)だ。発災当時の市の幹部や防災関係部局のほぼ全員に聴き取りができたという。市には地震発生直後に災対本部が設置されたものの、大津波警報や避難指示の住民への広報を適切に行わなかった市の対応を疑問視する声が多く上がっていた。

■初動70分の対応実態

 2011年3月当時、市庁舎は耐震化されておらず、館内放送での呼びかけにより、発災直後に職員の多くがいったん庁舎外に退避した。これは、防災計画にない動きだったことが、チーム1の調査でわかっている。

 15時55分頃、佐々木一十郎名取市長が、防災行政無線を送出する親機のある防災無線室に飛び込み、避難指示を出すよう担当者に指示をした。担当者は、14時47分から15時59分までの1時間余りで、避難指示や大津波警報、避難を呼びかける放送を8回行ったが、実際には防災行政無線の親機の故障により、放送は流れなかった。15時59分以降は放送をしなかった。市側が無線機の故障に気がついたのは、4時間以上経った当日19時頃のことだった。

 災対本部は、震度6弱以上の地震で自動的に設置された。15時18分頃から、部課長を集めて災対本部会議が開催されたが、会議が行われたのは、各部署が対応に当たれる設備の部屋ではなかったため、参集した部課長は再びそれぞれの席に戻っていった。会議後、沿岸部の閖上地区が大きな津波に襲われる様子がNHKで放送された。