無謀なジンギスカン作戦

 幸一たちがサイマオのキャンプを閉じたのは昭和19年(1944年)2月末のこと。次々と送りこまれてくる将兵の世話をする役割を終え、最後尾で本隊を追いかけた。

 いよいよインパール作戦開始の時が近づいていたのだ。

 幸一たち兵站担当者が必死に努力したものの、装備も食糧も十分とは言えない。

 インパール作戦の要諦は、最高峰のサラメティ山(3826メートル)など、2000、3000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越え、敵陣に奇襲攻撃をかける点にある。最初から長期戦を想定していなかったのだ。

 さしもの牟田口も不安を覚え、作戦開始前、上位組織であるビルマ方面軍および南方軍に対し、工兵(橋や道路などを作る部隊)、輜重(幸一たちが担っていた兵站を含む補給部隊)・衛生(野戦病院を含む)などの支援部隊の増強を要請しているが、結局補充されたのは要求の2割程度にとどまった。

 険しい地帯を越えていくため後方からの物資の補給は望めない。携行食糧は20日分持ったとすると1人最低50キロにもなる。とても人力だけでは運べないが、トラックなどの装備もほとんどなかった。

 3師団の師団長たちは口々にその無謀を諫言したが、牟田口は聞く耳を持たない。

「元来日本人は草食である」

 という牟田口の迷言(?)がある。

 戦場にはいくらでも草が生えているというのである。

 現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」と称する作戦も立案された。

 かのチンギス・ハーンが山羊を連れ、中央アジアを征服していった故事にならったのだ。

 だが前方に広がるのはビルマ・インド国境の峻険な山々や沼地である。一面の草原である中央アジアとは違う。そんな戦場で、のんびり牛を引いていけるはずもなかった。