戦線離脱した野戦病院での日々
幸一の属する第15師団長の山内正文陸軍中将はマラリアにかかり、ほとんど指揮の執れないまま病死したが、こうした環境は、もともと結核菌を身体に宿している幸一にとって過酷すぎるものだった。
兵站の仕事を終えて本隊を追いかけている途中、病に倒れ、後送されていくこととなる。
病院送りになれば戦わずにすむのだからラッキーではないかと考えるのは現代人的感覚だ。当時の兵士には、病で戦線から離脱することを恥だと思う矜恃があった。
それに普通、病んだ兵士はバナナの葉で雨露をしのげるようにしただけの野戦病院に寝かされ、ろくに食べ物も与えられず、治療を受けることもなく死を待つばかりだったのだ。
ところが幸一は幸運にも、ビルマの首都ラングーン(現在のヤンゴン)の病院に送られた。ここは確かにまだ“病院”と呼べる建物が立っていたのだ。
傷心の彼に悲報が追い打ちをかける。
昭和19年(1944年)5月17日の戦闘で、敬愛していた伊藤中尉が戦死していたのだ。その報せを遠く離れたラングーンで聞き、ふらふらした体で病院長に、伊藤の弔い合戦をしに戻りたいと申し出た。
「馬鹿者!」
病院長は幸一を一喝すると、一通の手紙を差し出した。
それは伊藤から病院長に宛てた手紙だった。幸一を十分療養させ、完全に治りきるまで面倒を見てやってくれと書かれている。
涙が止まらない。感極まった彼は、その場にくずおれるようにしゃがみ込み、男泣きに泣いた。
その夜は一睡もできなかった。ふがいない自分を責め続けた。