第25回
チェルノヴィッツ大学で正准教授に。境界都市の複雑な歴史的背景
坪井賢一
1909-1910年冬学期からシュンペーターはチェルノヴィッツ大学正准教授として講義をはじめた。大学の歴史をひもとくと、支配者が移り変わっ…
2008.9.17
「経済成長の起動力は企業家によるイノベーションにある」とする独創的な理論を構築したシュンペーターの発想の冒険行を、100年前のウィーンから辿る知の旅行記。
第25回
坪井賢一
1909-1910年冬学期からシュンペーターはチェルノヴィッツ大学正准教授として講義をはじめた。大学の歴史をひもとくと、支配者が移り変わっ…
2008.9.17
第24回
坪井賢一
シュンペーターの処女作である『理論経済学の本質と主要内容』は、実は非常に読みにくい。本書では、「ワルラス一般均衡理論」の意義について論理実…
2008.9.3
第23回
坪井賢一
ジークムント・フロイト(精神分析学者)、グスタフ・マーラー(作曲家)、そしてシュンペーターの共通項は、ともにモラヴィアの出身で幼少年期に帝…
2008.8.20
第22回
坪井賢一
1909年3月16日、シュンペーターはウィーン大学私講師として正式に認められることになった。ウィーン大学で私講師資格を得たシュンペーターは…
2008.8.6
第21回
坪井賢一
1907年11月、シュンペーターはロンドンで電撃結婚をする。なんと、相手は英国国教会の高官の娘、グレイディス・リカード・シーヴァー。このと…
2008.7.23
第20回
坪井賢一
弁護士資格を得たシュンペーターは、ドイツやイギリスへ留学。ロンドンでは経済学以外のゼミナールにも参加し、大いに影響を受けたという。生活でも…
2008.7.9
第19回
坪井賢一
1905年夏学期。ウィーン大学のバヴェルクゼミでは、マルクス支持派、急進的自由主義者などの学生が集まり、教授を囲んでマルクスをめぐる大討論…
2008.6.25
第18回
坪井賢一
ウィーン大学での最後の学期、シュンペーターはベーム=バヴェルク名誉教授のゼミを受講した。そのゼミナールには、後に超有名人となる面々が揃って…
2008.6.11
第17回
坪井賢一
シュンペーターは第6学期でヴィーザー教授のゼミナールに参加。カール・メンガーの後継者、ヴィーザー教授は1903年にプラハ大学からウィーン大…
2008.5.28
第16回
坪井賢一
カール・メンガーとはどのような人物だったのか。文献によっては「官吏」だったり「新聞記者」だったりとまちまち。なぜ官吏でかつ新聞記者なのかさ…
2008.5.14
第15回
坪井賢一
シュンペーターが第4学期と第5学期を過ごしていた1903年、ウィーン大学教授カール・メンガーが退官し、名誉教授となった。カール・メンガー(…
2008.4.30
第14回
坪井賢一
シュンペーターのゼミの教授であったフィリッポヴィッチ教授。彼には著書・論文が多数あった。中でも『フィリッポヴィッチ氏経済原論』『フィリッポ…
2008.4.16
第13回
坪井賢一
1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。つまり1年間で計60コマ。全部出席していたとも…
2008.4.2
第12回
坪井賢一
シュンペーターが受講した「力学の歴史と哲学」、教えたのはアロイス・ヘフラーというウィーン大学私講師だった。ヘフラーはデューリンクとマッハを…
2008.3.19
第11回
坪井賢一
シュンペーターが入学してから履修した講義については、京都大学経済学部教授の八木紀一郎先生が1993年に発表した論文「シュンペーターとヴィー…
2008.3.5
第10回
坪井賢一
1901年、シュンペーターはギムナジウムを卒業するとウィーン大学法・国家学部に入学する。ウィーン大学の創立はなんと1365年。ルドルフ4世…
2008.2.20
第9回
坪井賢一
1893年、シュンペーターは母、継父とともにグラーツからウィーンへ移住し、貴族階級の子弟の学校であるテレジアヌム Theresianum …
2008.2.6
第8回
坪井賢一
シュンペーターの母親の再婚相手はSigmund von Kélerという退役した陸軍中将だった。姓名の発音は、ドイツ語読みならばジークムン…
2008.1.22
第7回
坪井賢一
シュンペーターがオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだ理由は、教育問題にあったらしい。父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを…
2007.12.21
第6回
坪井賢一
シュンペーターの母親は、オーストリア帝国シュタイヤーマルク州の州都、グラーツへ移り住むことになる。ウィーン大学入学まであと13年、もう少し…
2007.12.19