1902年夏学期(第2学期)にもシュンペーターはフェンシングを6週で12コマも受講している。前回、第1学期で12週24コマと書いたが、誤りでした。よくよく数えてみたら、3人のフェンシング教師から合計で48コマもレッスンを受けていた!つまり1年間で計60コマもフェンシングに打ち込んでいたことになる。全部出席していたとも思えないが、全教科でいちばん多く履修していたことは間違いない。
第2学期の履修科目を見てみよう(※注1)。
「パンデクテン第2部 債権・担保法」
「ローマ法演習」
「パンデクテン第1部 総論及び物権」
「ローマ家族法」
「ローマ法演習」別の教師
「ドイツ刑法・訴訟法史」
「ゲルマン法演習」
「オーストリア国家・法制史演習」
「通商及び通商政策論」
「貨幣・信用論」
「フェンシング」
大半は法-国家学部(※注2)のらしく国家試験用の法学・国家学の科目が並ぶ。「通商及び通商政策論」「貨幣・信用論」の2科目は国家学の中の経済学関係科目だ。
第1、第2学期でなぜ、大量のフェンシングのレッスンを受けていたのだろうか。
思い当たるフシはある。ドイツ圏の大学では、中世からなんと1930年代半ば、ナチスが政権をとるころまで大学内で学生同士の決闘が行なわれていたのである。決闘ですよ、決闘。サーベルをぶん回して決闘するのである。日本の明治時代に高等学校や帝国大学の学生が真剣で果し合いをしていた事実はないだろう。ドイツ圏ではごく普通の光景だったらしい。
大学生は出身地別の学生組合(Korps コーアス、あるいはVerbindung フェアビンドゥンク)に属し、青年期特有の愚行の数々を演じていたという。日本の旧制高校のようなものか。制服制帽で組合別のお祭りもあった。学生組合のお祭りは現在もあるという。
大学も認めていた学生同士の決闘
時には死亡者も・・・
彼らはささいなことをきっかけにして、「騎士の名誉」にかけて決闘したのだそうだ。大学当局も決闘を認めていて、立会人と医師が観察し、重傷を負う前に止めていたのだそうだが、間に合わずに死亡することもあったらしい。その様子は、潮木守一先生の『ドイツの大学』(※注3)に詳しく描写されている。いやはやなんとも、ものすごい風習だ。
かの大学者、マックス・ウェーバー(Max Weber 1864-1920)もハイデルベルク大学の学生時代に3回決闘し、顔に傷を得ているというから、これは愚行というよりは学生の「必修」だったのだろう。潮木先生によると、傷にワインをすりこんで腫れさせ、わざと凄みを出している輩もいたらしい。
では、ウィーン大学でも決闘はあったのだろうか。あったのである。潮木先生の著書には、作家のシュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig 1881-1942)がウィーン大学の学生時代に、決闘を見て辟易していた様子が出てくる。