前回までで、シュンペーターが第8学期を終え、1906年 2月にウィーン大学法・国家学部を卒業、「ローマ法と教会法に関する研究」で博士号(法学)を取得し、弁護士資格を得るところまできた。この年の7月3日に母親は継父ジークムント・フォン・ケラーと離婚してしまうが、貴族の資産を活用してか、ドイツ、フランス、イギリス、エジプトへと旅立つことになる。

ドイツからイギリスへ。
各地のゼミナールを積極的に受講

 まず、ドイツのベルリン大学でグスタフ・シュモラーやヴェルナー・ゾンバルトの国家学ゼミナールに参加した。シュモラーといえば、シュンペーターの先生であるヴィーザーやベーム=バヴェルクの恩師カール・メンガーの論敵である。メンガーはすでに退官しているが、方法論争(※注1)はまだ記憶に新しい時期だ。

 オーストリア学派の理論経済学とドイツ歴史学派は相容れないはずだが、シュンペーターはウィーン大学で経済史のゼミナールにもずいぶん参加しているし、マックス・ウェーバーやシュモラーの著作も大量に読んでいたのだろう。

 シュモラー・ゼミの様子を記録した文献は見当たらなかったが、ウェーバーとのやりとりはいくぶんか残っている。もう少しあとで出会うことになるウェーバーは、次回以降で登場することになる。

 ドイツでは2、3ヵ月過ごし、秋になるとフランスのパリで数週間過ごして(※注2)からイギリスへ渡り、約1年間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)の研究生となった。ここまでの事実関係は各種の評伝に出てくるが、LSE研究生、という身分について書いてあったのは、今年出版されたハインツ・D・クルツの評伝である(※注3)。

 ロンドンでは経済学以外のゼミナールにも参加し、大いに影響を受けたという。シュンペーターが1908年に教授資格試験(ハビリタチオーン)用にウィーン大学へ提出した自筆履歴書があり、京都大学の八木紀一郎先生が訳しておられる。

 それによると、イギリスでは「その後、私が現代統計学に従事しているさいには、K.ピアソンとエッジワースの、また人類学についてはハッドン教授の影響を受けたことに言及しなければならない。社会学の研究については、ウェスターマーク教授のゼミナールでの研究によって著しい刺激を受けた」(※注4)。

 なお、この履歴書には「LSE研究生」と書かれていたので、クルツ先生(グラーツ大学教授)も履歴書を参照しているのだろう。