1905年夏学期。ウィーン大学のベーム=バヴェルク・ゼミナールに、マルクス経済学支持派、反マルクス経済学派の学生が集まり、教授を囲んで討論が続いていた。ベーム=バヴェルクはオーストリア学派の自由主義者として反マルクス経済学の論文を発表している。

 カール・メンガーの『国民経済学原理』が世に出たのが1871年、この年から限界効用理論の精緻化が始まり、ヴィーザー教授やベーム=バヴェルク名誉教授(大臣職の合間に講義していた。※注1)がオーストリア学派第2世代として、欧州一円から注目を集めていた(※注2)。

 一方、マルクスは1848年に『共産党宣言』を発表後、1867年に『資本論』第1巻を出版している(マルクス生前の出版は第1巻のみ)。マルクスは1883年に死去(シュンペーターとケインズ誕生の年)しているが、マルクス経済学は支持者や研究者をどんどん増やし、政治的な影響力も大きくなっていった。

 ベーム=バヴェルクは1896年に『マルクス体系の終結』を書き、マルクス経済学が立脚する労働価値説の矛盾を論じている。

 シュンペーターより6歳年長のルドルフ・ヒルファーディンクはウィーン大学医学部を卒業し、その後は社会科学を学んで第1次学生社会主義団体を組織していた学生運動家である。ヒルファーディンクがドイツ社会民主党に招かれたのは1902年。2年後の1904年に「ベーム=バヴェルクのマルクス批判」という反ベーム=バヴェルク論を発表している。このときヒルファーディンクは27歳だった。

 そして翌1905年夏学期、ベーム=バヴェルク・ゼミナールにヒルファーディンク、オットー・バウワー、エミール・レーデラーというマルクス主義者の学生、そして正反対の急進的自由主義者の学生であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、そしてシュンペーターらが参加して、マルクス経済学をめぐる大討論が続いたというわけだ。

各国の経済学書を読破
語学の達人だったシュンペーター

 シュンペーターは自分をどういう思想的な位置に置いていたのだろう。彼はマルクスを非常に高く評価している。政治的には同調していないが、マルクスの本をよく読んでいたようだ。