24歳から25歳にかけて、シュンペーターはドイツを皮切りにフランス、英国を経てエジプトにいたる英国青年の通過儀礼のような旅(グランド・ツアー)を終えてウィーンに帰った。1909年初頭のことである。わずか2年と少しで、多くの大学のゼミで学び、結婚し、就職し、ドイツ語で626ページに及ぶ長大な論文(書物)を書き上げて出版した。
1908年10月22日付でカイロからウィーン大学法―国家学部へ講義資格審査(ハビリタチオン)のための書類を提出している。提出した論文は、もちろんカイロで仕上げたDas Wesen und der Hauptinhalt der theoretischen Nationalokonomie(『理論経済学の本質と主要内容』※注1)である。
この論文は1908年中にライプツィヒの出版社、ドゥンカー&フンブロート社(Duncker & Humblot)から上梓している。どうして弱冠24、25歳の青年がいきなり出版できたのか、どの資料にも出ていないが、オーストリア貴族にして英国上流階級の夫人を得たことが駆動力になったのだろう。小部数で買い取りも多かっただろうから、財力がものをいったのかもしれない。本書をあちらこちらに献本しているようだ。
1908年10月にローザンヌ大学のレオン・ワルラスに献本し、「これは弟子の本です。」と手紙を書いている(※注2)から、秋に完成したものと思われる。本書については次回以降で紹介するが、いろいろな文献や資料には、シュンペーターはエジプトで在職中、短期間で書き上げた、と出ている。
しかし、少し時期が合わない。筆者は原書を見ていないが、邦訳の序文には「1908年3月2日 カイロにおいて J.シュンペーター」と署名が入っているから、エジプトで書いたとすると、わずか2か月で書いてしまったことになる。
いくらなんでも早すぎるので、たぶん大学生のころから準備し、卒業してから旅先で書き続けてカイロで1908年3月に脱稿し、半年ほど推敲と校正に費やして秋に完成したものと推測できる。
いずれにせよ、旅先で参考文献もあまり持ち歩けないなかで書いていたわけだから、彼の記憶力には恐るべきものがある。評伝を書かれた多くの先生方も、参考文献が1つも出ていないことに驚き、博覧強記ぶりに仰天している。
講義資格を取得
母校の教壇に立つ
この本を講義資格審査用の論文として提出したシュンペーターは、同時に履歴書や講義計画書も提出している。一連の手続きについては、京都大学の八木紀一郎先生がオーストリア国立文書館で入手された資料によって、日付まで特定されている(※注3)。