ジークムント・フロイト(1856-1939 精神分析学者)、グスタフ・マーラー(1860-1911指揮者、作曲家)、そしてシュンペーター(1883-1950)の共通項は、ともにモラヴィアの出身で幼少年期に帝都ウィーンへ移住し、ウィーン大学で学んだことである。異なる点は、年齢、そしてフロイトとマーラーがドイツ語を母語とするユダヤ人であり、シュンペーターはドイツ人だということだ。
世紀末ウィーンに蔓延した神経症
皇室にも数々の悲劇が
1848年の革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ皇帝の治世は長い。市場開放、城砦の撤去、国有地払い下げ、交通の自由など、経済成長を促す政策をとりながら、絶対君主による帝国の統治が長く続いている。
複雑な多民族帝国の象徴であり、1日3時間の睡眠で執務していたという皇帝は、どう考えても神経症だったとしか思えない。極度の不眠症だったのであろう。帝国の領域は狭まり、各地で民族主義が勃興し、列強の衝突も多く、足元では社会主義者が激しく活動している。不眠にもなろうというものだ。
シュンペーターにも強く影響した「世紀末ウィーン」の文化史的な分析には、実に多くの研究書があるが、筆者はブルーノ・ベッテルハイムの『フロイトのウィーン』(※注1)がもっとも面白く読めた。
ベッテルハイムによれば、「ウィーン文化に真の独自性を与えたのは、ウィーン文化の最大の開花期が、この都市をはじめて有名にした帝国の崩壊期と同時に到来したという歴史上の僥倖であった。(中略)この奇妙な同時性こそが、両価性(アンビヴァレンス)、ヒステリー、神経症の理解にもとづく精神分析が、なぜウィーンに発祥したのか」を説明しているという。ウィーン市街の建築も「帝国旧都と近代文化の中心地という二重の、やや矛盾した性格を与えた」(ベッテルハイム)。
皇室も例外ではなく、多くが神経症に悩み、数々の悲劇を生んでいる。
美貌のエリーザベト皇后はヒステリーで、神経性食欲不振だったそうだ。あてどなく長期にわたって旅行し、1898年に旅先のスイスで暗殺されてしまう。皇太子ルドルフはその9年前の1889年、愛人と心中している。
ルドルフ皇太子の家庭教師だった経済学者カール・メンガー(シュンペーターの先生の先生)は、この心中事件後、すっかり気落ちして、やがてウィーン大学を去り、その後は何も書き残していないことは連載第16回で述べた。深い憂鬱へ沈んでいったかのようだ。
ベッテルハイムは「性と死とのこうした相互関係はウィーンの芸術、文学、および精神分析の通奏底音的主題をかたちづくっていた」という。
べッテルハイムはフロイトについて書いているのだが、マーラーの交響曲の解説を読んでいるようだし、クリムトの絵の解釈を聞いているようでもあるし、ヴィトゲンシュタインの短い命題の連続を読んでいるようでもある。つまり、世紀末ウィーンの特色を見事に摘出した書物だと思う。