もちろん、「障害者が頑張る姿を見て、素直に感動したり共感したりすることが、そんなに悪いことなのか?」と疑問に思う人もいるだろう。「社会的に注目されることが少ない障害者や難病患者にスポットが当たることには、社会的な意味もある」という意見もあるだろう。

健常者視点からの「作為」への違和感

 しかし、『バリバラ』の調査によれば、「障害者の感動的な番組をどう思う?」という質問に対して、健常者の45%が「好き」、55%が「嫌い」と回答しているのに対して、障害者の90%が「嫌い」と回答している。当事者の90%が「嫌い」と回答しているということは、当事者から見れば、やはりテレビでやる障害者の感動的な物語に、健常者側の視点でのある種の“作為”を感じているということだろう。

 実際、テレビは作為的な演出をやる。僕の知人のある難病患者は、テレビ取材を受けたとき、仕事の打ち合わせシーンで「そこで倒れてください」とディレクターから実際に指示されたと語っていた。『バリバラ』でも、同様の演出場面をパロディとして放映している。テレビがほしがるのは、“使える”映像であり言葉であり、それは“健常者を感動させるもの”なのだ。

 しかし僕は、『24時間テレビ』だけを批判するつもりもない。『24時間テレビ』が、このような感動ポルノを放映するのは、視聴者がそれを見たいと思っているからだ。テレビの論理は単純で、視聴者が見ないものは放送しない。だから、「障害者の見世物小屋」とまで批判されている『24時間テレビ』も、両足マヒの少年が富士山に登る映像は流しても、障害者プロレスのことはけっして扱わない。それは多くの視聴者が、両足マヒの少年が富士山に登ったり、ダウン症の少女がダンスを躍ったりする姿には感動できても、脳性マヒの障害者が健常者相手にプロレスのマットで戦う姿など見たくない。それだけの理由なのだ。結局のところ、人々が感動ポルノを求めているからこそ、テレビは感動ポルノを放送する。そして、障害者(当事者)たちの願いは置き去りにされる。

 では、障害者たちの願いとは何か。なぜ、障害者の人たちは「感動ポルノ」を嫌うのか。その答えも、前述のステラ・ヤング氏がTEDトークのなかで語っている。その部分を引用する。

 以下、『logmi』より引用


 私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。


 ヤング氏のこの言葉こそが、多くの障害者の気持ちを、願いを集約させていると思う。障害者支援とは、健常者が障害者とどのように向き合うかということだが、その方向性は実際に「ふつう」という方向に向かっている。