「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?
IT革命同様、私たちの生活を一変させようとしている技術革新がバイオテクノロジー(BT)革命です。そこで、現代におけるバイオテクノロジーの発展が、私たち「人間」をどこへ導くのか、考えてみましょう。
1950年代に、ワトソンとクリックがDNAの「二重らせん」構造を解明して以来、生命科学と遺伝子工学が飛躍的に発展しました。現在では、自然界に存在しなかった生物でさえ、人為的に作製できるようになったのです。こうして、BT(バイオテクノロジー)革命と呼ばれる時代が到来しました。
今まで、バイオテクノロジーの向かう先は人間以外の生物でした。遺伝子組み換えやクローン動物の作製にしても、基本的には人間以外の生物が対象とされてきました。人間を例外としたうえで、人間のために他の生物種を遺伝子工学的に操作するわけです。
こうしたバイオテクノロジーを人間に応用したとき、何が生じるのでしょうか。あらためて言うまでもありませんが、人間もまた生物種の一つ、すなわち哺乳類に属していますから、人間に対する遺伝子操作は原理的には可能でしょう。
1970年代には、いわゆる「試験管ベビー」が誕生することで、受精卵に対する操作も可能になっています。また20世紀末から「ヒトゲノム計画」が始まりましたが、21世紀の初めには予想よりも早く完了し、今では人間のDNA情報がすっかり解読されています。とすれば、人間に対する遺伝子操作が日程に上るのも、それほど遠くないと思われます。
現在でもゲノム編集をはじめとして、人体の改変はどこまで許されるのか――「ポスト・ヒューマン」をめぐる議論が哲学者の間で活発に交わされています。
「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?
IT&BTという現代におけるテクノロジー革命の帰趨は、近代(モダン)の終わりという哲学的視点から考えることが可能なように思います。しかし、近代(モダン)が終わるかどうかは、資本主義を抜きに語ることができません。
というのも、資本主義は「近代社会」の中心をなしているからです。マルクスの「唯物史観」の公式によれば、社会の変化は、「アジア原始的」→「古典古代的」→「中世封建的」→「近代資本主義的」とされています。とすれば、近代の終わりは、「資本主義の終わり」なのでしょうか。
フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは、かつて『弁証法的理性批判』(1960年)のなかで、「マルクス主義を生みだした状況(資本主義)がのりこえられていないので、マルクス主義はのりこえ不可能だ」と語ったことがあります。
ところが、皮肉なことに、歴史はサルトルの言明とは逆の方向に進んでいったように思えます。マルクス主義にもとづいて社会を建設した国家が、20世紀の終わりにはことごとく崩壊し、「社会主義」は資本主義にのりこえられたように見えました。資本主義と社会主義の対立(「冷戦」)が終焉し、政治学者のフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と呼ぶ事態となったわけです。
フクヤマは、西欧の「リベラルな民主主義」、経済的には資本主義が最高の段階と見なし、今日まさに「歴史の終わり」が実現したと考えました。この見方からすれば、資本主義は永続し、「近代」という時代は終わらないように見えます。
しかしながら、今日では、フクヤマのように、資本主義の千年王国を信じることは、もはや不可能ではないでしょうか。ピケティが問題にしたように格差拡大は今後も社会対立の火種となりうるリスクを抱えることでしょう。その他にもフィンテックという金融資本主義にまで及んだIT革命の影響や、グローバル経済が必然的に抱えるパラドックス、ベーシックインカムが導きだす「自由」をめぐる根源的な問題まで、哲学的思考を必要とする問題は山積しています。