Photo by Toshiaki Usami
四十路を前に、砂原健市は生まれて初めて、血の小便を出した。診断結果は過度のストレスによる尿管結石。その後も事業が軌道に乗るまでに計4回患い、うち2回は救急車で運ばれた。
かつて大学卒業後、東京・吉祥寺で設立した保険代理店は順風満帆だった。年商は4年で1億円、10年で6億円に達した。気がつけば、米AIUの保険代理店の中では、東京3多摩地区でナンバーワンの売り上げを誇るまでに成長していた。
だが、ある出来事を機に、その成功をばっさりと捨て去った。
会社設立から丸10年がたった1983年12月、母親が自宅で突然、倒れた。くも膜下出血だった。すぐに救急病院へと運ばれたが、脳外科はなく、総合病院へ転院したのは翌日のこと。処置が遅れたため、右半身麻痺の体となった。
地域活動から絵画、俳句まで、あれほど活動的だった母親は、心身共にみるみる衰えた。それから約10年間、砂原は長男として母親を介護し続けた。
「なぜこんな目に遭わなければならないのか」
心底愛していた母親を変えた医療制度への強烈な怒り。これが新たな起業の原点となった。
85年、保険各社に声をかけ、民間による救急サービスの事業化を目指す勉強会を発足させた。前例のないサービスを始めるに当たり、要した時間は約4年間。その間、旧厚生省に通った数はじつに87回に上った。
そして89年6月にティーペックを設立。医師や看護師らによる24時間体制の相談サービス「ハロー健康相談24」を始めた。
法人需要を狙い利用者獲得に成功
相談件数は1200万件
ところが予想ははずれた。