2008年、スタートアップ期の「ベンチャー支援」を掲げて「サムライインキュベート」を起業し、現在はイスラエル進出を成し遂げるなど、今も次々と挑戦を続ける榊原健太郎氏。そんな榊原氏が、周囲から「無謀すぎる」と否定されたイスラエルでの挑戦をやりきれたのは、なぜなのか?
ベンチャー支援をミッションとする「盟友」斎藤祐馬氏が、著書『一生を賭ける仕事の見つけ方』で大好評のノウハウ「感情曲線」をもとに、榊原氏の「挑戦の鉄則」を明らかにする!

「これは変えられないかも……」
――イスラエルで立ちはだかった「壁」と不条理

斎藤 39歳から41歳、つまりここ2年ほどで異常なまでの上下動をしていますが、これはイスラエルで事業をはじめて以降、ですよね?

榊原 そうです。

図2)榊原氏自筆の「感情曲線」。小学校高学年での大きなプラス、40歳前後の極端な上下動が特徴的  <拡大画像を表示する>

斎藤 ものすごく大変だったと思うんです。イスラエルに1人で、しかも英語を話せない状態で行くって、無謀中の無謀じゃないですか。実際、感情曲線も大荒れです。でも、それをやり切っているわけで。その熱量の保ち方を含めて、エピソードを交えてお伺いしたいです。

榊原 前提として、僕は超ポジティブなんですよね。それでも、感情曲線が振り切れるくらい落ち込んだわけです。最初の急降下は、日本から茂木敏充大臣(当時)や内閣府の方々もたくさん来て、イスラエルと日本の距離を縮めようという話がまとまる、そんな予感を持った直後の出来事でした。僕がイスラエルに乗り込んだことで、両国の経済が一気に活性化する!――と思った次の日に戦争が始まったんです。ガザ地区との戦争が。その日から20日間連続でミサイルが飛んできました。

 僕は、世の中のことは全部変えられると思っていました。でも、戦争が起きてしまって、うわぁ、変えられないことあるんだ、と思って、結構へこんだんです

斎藤 イスラエルに道をつくろうと乗り込んで、1年も経たないうちに……。

榊原 いや、1年じゃないですよ(苦笑)。1ヵ月目です。結局、そのときに思ったのは、俺、何のために仕事しているんだろうってことでした。そしたら、「そうか、ノーベル平和賞を獲るためだ」と思えて(前編参照)、これ、チャンスかもしれない、と……。結局、紛争の問題は貧困というか、失業率が高くなっているからで、一番戦争に近いところにいるということは、ビジネスで解決できるチャンスでもあるんじゃないか。そうか、俺、戦争を止めるために、ここに来たんだ、と思ったんですよね。で、復活しました、次の日に。

斎藤 次の日?まだ、ミサイル飛んできているんですよね?本書でもネガティブな出来事に捉え直すコツを紹介しています『一生を賭ける仕事の見つけ方』116ページ~参照)が、榊原さんにはかないませんね。イスラエルで苦しかったこと、他にありますか?

榊原 東京とイスラエルを往復していて、最初は頭が狂いそうになりました。全然世界が違うので。いまはもう、その切り替えにも慣れましたけど。今は、いろんな世界を同時に見れているので、超幸せ、と考えられるようになりました

 たとえば、世界中でテロで亡くなっている方って、一番多いときで年間3万人なんです。そうしたテロの実際の姿を見て日本に帰ってくると、何を見ると思いますか?山の手線に朝、乗ります。人身事故があります、みんな嫌な顔をします。会社に遅れる、とか言って。人が死んでいるんですよ?そのギャップが相当気持ち悪かったですね。人1人の命の重さの扱い方がここまで違うのか、と思って。世界中のテロをなくすんじゃなくて、まず、日本の自殺とかを直さないとダメだっていうふうに、僕も思ったりして。何が平和なのか、何が平和じゃないのか、というので、葛藤がありました。