蕎麦の打ち方を教わったのは1度だけ
後は自分の工夫で難易度の高い蕎麦をものにした

「今から考えると、まるでラブレターのようなものだったかもしれません」と鈴木さん。お遍路で「まちだ」の蕎麦に感動したこと。友人の古民家で過ごし、大地を踏みしめて働いた歓び。人間らしい生き方を見つけたい。そんな自分の想いをありったけ詰め込んで店主に嘆願した。

 返事は早かった。「おお西」には、当時、5人も職人がいたが、「面白そうな男だ。すぐに来なさい」と鈴木さんを受け入れた。実は、「おお西」の店主が蕎麦屋への岐路に立ったとき、鈴木さんと同じ38歳だった。お遍路までして選んだ道に自分の昔の姿が重なったのではないだろうか。 

昨年から夜の営業に方向転換。蕎麦前料理を充実させた。場所柄、舌の肥えた客が多い。旨みのある豆腐で作る揚げ出し豆腐はたっぷりとした出し汁の中で泳ぐ。

 鈴木さんが「おお西」に到着して、店の2階にリュックを下ろした途端、「お~い、蕎麦を打ってみな」と階下から店主の声がしたそうだ。

 店によっては、蕎麦打ちを教わるまでに長い下積みをしないとならないところもあるのに、これまで蕎麦粉を触ったこともない男にいきなりそう叫んだというのだから面白い。

「おお西」の店主は万事がそんな人だった。しかし、鈴木さんが先輩から打ち方を教わったのは、これが最初で最後。後は自分の工夫で打たなくてはならないというから、指導方針も変わっていた。

「手打茶寮」の蕎麦はすべて難易度が高い。発芽蕎麦はもちろん、水こね十割の更科など、詳しくは後述するが、並の職人に打てるものではない。当然、原型は「おお西」だが、表現され、生まれ落ちてくる蕎麦は鈴木流だ。

 師匠に習うだけでなく、そこから独自の味を生み出す工夫を重ねていく。弟子はそうしないと大きくならないからと常々店主から聞かされた。

「弟子の千利休が大きくなったから、師匠の武野紹鴎※2の名も大きくなった。だから、お前も俺を大きくしてくれ」。背中にオーラを背負っているような人がそういうのだから可笑しい。

※2 武野紹鴎:千利休が歴史的に織田信長、豊臣秀吉の茶指導者として名が出てくると、その師匠が探された。北向道陳の名も出てくるが一般的には武野紹鴎とされる。このことで、弟子が師匠の名を高くする例に例えられる。千利休の茶を信長は政治的な思惑の中に組み込んで、それを秀吉がさらに戦術面で活用したとされる。