四国で出会った蕎麦屋は「おお西」の弟子
お遍路の道は蕎麦屋への道につながっていた

 その蕎麦屋は「まちだ」といい、信州上田の「おお西」に修業に入った亭主が開いた店だった。が、この時は鈴木さん自身、自分がまさか蕎麦屋になるとは考えもしなかった。

「そのころ友人が古民家を買い、脱サラして農業に入りましたた。彼に招かれて、手伝いをして畦道で乾杯したんですが、このビールが体中に染み渡ったんです。真底、美味いと思いました」(鈴木さん)。

西麻布「祈年」――都内で唯一、発芽蕎麦と水こね十割の更科が味わえる店で豊穣な夜を楽しむ発芽蕎麦はフードプロセッサーで挽く。手挽き独特のざらついた肌あい、蕎麦の甘皮が星のように飛び、透明感もある。広がる香り、味わいに深みがある。

 この時、“古民家、人間らしい生活、蕎麦屋”と鈴木さんの脳裏に3つのワードが重なった。

「人間は土を踏みしめて、労働して、その対価を得るような生活をしなくては……」と思ったそうだ。迷う自分のことを聞き、理屈ではなくその生き様で何かを語ってくれた友人に感謝した。

「そうだ、おお西に行こう」――。全く蕎麦など打ったことのない鈴木さんがそう思った。紛れもなく、四国お偏の旅は彼を誘う蕎麦屋道だった。四国の第八十八箇所最終札所を終えた先に、道はまだ続いていたのだ。

 こうして鈴木さんは信州上田の「おお西」に向かった。

 蕎麦屋を開く人は多かれ少なかれ、変わったところがある。鈴木さんを受け入れた「おお西」店主もそんなところがあるようだ。彼は脱サラで屋台の蕎麦屋を始め、次いで東京は世田谷で店を開いた。

 傍から見ても店は順調で客も集まってきていた。が、彼は突然信州に移店してしまい、そこでも瞬く間に名を上げた。“眠れるそばの本場”の活性化が目的だったというから、普通の人とは発想が違う。

 その店主に鈴木さんは文をしたためた。