「ほどほど」の立ち位置は難しいが健全である
ある大手新聞社の論説委員が参加する「なぜ若者は新聞を読まないのか」というテーマを議論するイベントに参加したことがあります。
その打ち合わせのときに、私はこんな発言をしました。
「若者だって今は収入が少ないのだから、新聞代になかなかお金はかけられませんよね。そもそも、いま新聞の購読料は毎月いくらですか?」
私の発した問いに、居並ぶ論説委員は誰一人として答えられませんでした。
自分たちが売っているものの値段を知らない。そのくせ「こんなに良いものを作っているのに、読まない若者は問題だ」と言ってのける無神経さ。私にはちょっと考えられない姿勢です。
この大手新聞社の論説委員や公務員側の対応を見ると、お金を払っているのに運営側に経営感覚がまったくなければ憤りを覚えるのは当然でしょう。したがって、大阪市民が橋下さんの論調に賛意を示すのもある程度は納得できます。
とはいえ、収益だけを意識して児童文学館を運営すれば、幅広い資料を揃えることはできません。読者を拡大する一般受けする記事だけを書けば、新聞としての使命を果たすことはできなくなります。
数値化できる成果が出るものだけを追う風潮には、私はとても賛成できないのです。数値化されるものを積み上げていっても、世の中うまく回るものではありません。社会で必要とされているものの中で、数字で比較できるものは限られていると思います。そのようなものだけ評価しようとする発想にバランスの偏りを感じます。
すべてのことは、極端に偏るのではなく「ほどほど」にする。しかし「ほどほど」ほど難しいものはありません。
極端に偏ることは、考え方を持つうえでも議論をするうえでも、むしろ簡単なことだからです。橋下さんの主張する「極端」な政策が破たんしたら、大阪市民は別の「極端」になだれをうって偏っていくことになるでしょう。こうした風潮は決して健全とは言えず、市民は多くのストレスを抱えることになるのではないでしょうか。
多様性のある現代社会では、白とも黒ともつかないなかで考え、迷いながら生きていかざるを得ない。確かにそこで生じるストレスはあるかもしれませんが、極端から極端に振れることから生じるストレスよりはるかに健全だと思います。