まるで地引き網のごとく人材をのみ込む大本をたどっていくと、メルカリ創業者で会長兼最高経営責任者(CEO)の山田進太郎に行き着く。
山田は創業来、「日本を代表するテックカンパニーをつくる」と公言し、「世界の縮図である米国市場を攻略する」と一貫して言い続けてきた。
こうした思いを直接語って「一緒にやろう」と口説きにかかる。これに百戦錬磨のエリートたちが陥落していったのである。
山田を支える精鋭集団のバックグラウンドは大きく分けて三つある。まずベンチャー業界から転じた鬼才たち。メルカリに入らなくても一人で起業できるほどの実力者ばかりだ。
彼らと山田との出会いは2007~10年ごろに集中している。その裏にはソーシャルゲームのブームがあった。
09年にソーシャルコミュニティーサイト大手ミクシィは、自社で運営するSNSサイトのアプリ開発を他社に開放する「オープン化」を実施。これを機にソーシャルゲーム時代が幕を開け、あまたのベンチャーがゲーム開発という金脈に押し寄せた。
当時、インターネット企業のウノウを経営していた山田もこのブームに乗った。育成型ゲーム「まちつく!」をミクシィ上で大ヒットさせ、業界に名を轟かせた。
このタイミングで出会ったのが現社長兼最高執行責任者(COO)の小泉文明だ。当時ミクシィ取締役だった小泉は、山田の人柄にほれ、共に酒を飲んだり食事をしたりする友人関係になった。
小泉はメルカリ創業の10カ月後に「社員ナンバー17番」として入社した。前年にミクシィ取締役を退任し骨休めをしていたところ、山田から声が掛かったのだ。
ソーシャルゲームの最盛期が過ぎたタイミングで、次の時代のCtoC(個人間取引)の大波に乗った格好だ。「運よく進太郎さんとの再会があったので、もう一回社会のムーブメントを感じることができた」と小泉は振り返る。
メルペイ執行役員の松本龍祐もソーシャルゲームの時代に山田と出会った。自ら創業したコミュニティファクトリーでソーシャルゲームを開発していた当時、ミクシィが出資し、小泉が社外取締役になった。山田とも小泉とも顔なじみでメルカリ入りした。
ソウゾウ社長の原田大作も当時、ウォルトディズニージャパンのゲーム担当として、ミクシィ向けのソーシャルゲームを手掛けていた。後に起業したベンチャーのザワットをメルカリが買収し、原田自身もグループ入りした。
ソーシャルゲームを開発していたエンジニアたちについて、山田は「数字に強くてスキルが高い」と評価する。
山田自身がその経験者だが、ゲームエンジニアはユーザーを呼び込むことや、楽しみを提供して滞在時間を延ばしてもらうことに長けている。フリマアプリでも、ユーザーの反応を分析して改良を繰り返すというゲームのアプローチを採用しており、彼らのノウハウが有効なのだ。
各界の大物が続々
山田に惹かれメルカリ入り
メルカリが成長するにつれ、ベンチャーとはまた異なる頭脳が必要になった。すると山田は金融、官界、大企業のエリートを呼び込んだ。
執行役員最高財務責任者(CFO)の長澤啓はゴールドマン・サックスの元投資銀行マン。
10~11年には米サンフランシスコに赴任し、ライドシェアの米ウーバーや民泊サイトの米Airbnbなど、株式未公開ながら企業価値が10億ドルを超える「ユニコーン」が勃興するのを目の当たりにした。
「日本でもユニコーンが出てくるだろう」と証券業務の一環でメルカリの小泉に会い、同社が日本初のユニコーンになれる実力があると見極めた。一方、小泉は資金調達の大型化を見据えてCFOの適任者を探していた。
小泉は、長澤を「いいな」と感じ、山田と引き合わせた。
「進太郎さんのことは全く知らなかったけれど、本気でグローバル展開に取り組んでいると感じた」と長澤。話しているうちに「これだけのチャンスがある会社で自分も挑戦したい」と思うに至った。
“山田マジック”は海外でも繰り広げられた。17年に就任した米国法人CEOのジョン・ラーゲリンは10年ほど前、日本のグーグルに勤めていたときに山田と知り合った。ベンチャー業界の会合で年2回会う程度だったが、「お互い面白いやつだと話が盛り上がり、意気投合した」(ジョン)という。
ジョンは10年からシリコンバレーに移り住み、2人はより親密になった。山田は米国出張のたびにジョンに連絡を取り、2カ月に1度は食事を共にして、メルカリの進捗状況をその都度吹き込んだ。