メルカリが日本で軌道に乗り、米国に進出した14年ごろからジョンを勧誘し始めた。FB幹部になっていた売れっ子ジョンだけに断られ続けるも、「僕が2人いるならやりたいくらい興味がある」と言わしめた。
16年ごろになると山田は「ではどんなタイミングなら興味がある?」と直接的なトーンで迫り、ジョンはついにメルカリ入りを決心した。
名前で呼ばれる
人たらしのビジョナリー
再び、ソーシャルゲーム隆盛時代に時計の針を戻そう。ミクシィがオープン化を始めた翌年、グリーが追随して、ソーシャルゲーム開発ベンチャーとの関係強化に乗り出した。このときグリー取締役だった青柳直樹(現メルペイ社長)はウノウ時代の山田と知り合った。
その後に青柳はグリーの海外担当役員として米国に赴任。メルカリ経営者となった山田と、米国法人を運営する経営者仲間として交流を深めた。
16年にグリーを退社すると1年にわたって山田の勧誘が続き、金融子会社メルペイを託された。
山田は10年にウノウを米ソーシャルゲーム大手、ジンガに売却している。シリコンバレー発の企業が日本のインターネット企業を買収するというのは、初めての出来事だった。
「シリコンバレーの会社に買わせるなんてすごい」。後にメルカリの創業メンバーになる富島寛は、米国企業と渡り合う山田に尊敬の念を抱いていたと明かす。
山田は売却後にジンガ・ジャパンでゼネラルマネージャーに就くも12年に退任。そのまま世界一周の旅に出て、翌13年に富島とメルカリを創業した。
「進太郎さん」「シンタローサン」──。日本人社員も外国籍社員も親しげに、山田を下の名前で呼ぶ。
立派な理念を掲げるだけでなく、それを伝える人心掌握力が起業家の必要条件とはよくいわれるが、山田は起業家の中でも図抜けたビジョナリーだ。
彼が理念を持つ希代の人たらしだったからこそ、国籍も出身も“バラバラ”で“キラキラ”を放つメルカリの布陣は成立した。
お仕着せの「ダイバーシティー(多様化)」を唱えるばかりで、年功序列によってがんじがらめとなった老舗大企業にその風土はあまりにまぶしい。