カッコいいとは何か。
だれもが何気なく口にするものの、その言葉が意味するところについて、はっきりと理解して使っている人は少ないでしょう。
『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)を上梓した小説家の平野啓一郎さん。
普段、私たちが何気なく使っている「カッコいい」について、さまざまな角度から掘り下げたこの作品は、ひたすら「カッコいい」論でありながらも、まるで人類史を読んでいるかのようなスケールの大きい一冊。平野さんがずっと書きたかったテーマというだけあって、力もこもっているように感じます。
今回、平野さんと対談をしたのは、『いちばん大切なのに誰も教えてくれない段取りの教科書』の著者であり、「くまモン」の生みの親であるクリエイティブディレクターの水野学さん。人々の心をつかむデザインを次々と生み出す水野氏もまた、「カッコいい」とは何かを常に考えているクリエイターです。
それぞれの領域は違えど、新しいものを生み出してきた二人が、「カッコいい」を語り尽くします。(構成/香川誠、和田史子、撮影/増元幸司)

水野学さんと平野啓一郎さん
「くまモン」でおなじみのクリエイティブディレクター・水野学さんと作家の平野啓一郎さん

そろそろ「アフリカ音楽」と言うのはやめませんか

平野啓一郎さん
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
小説家
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。2008年からは、三島由紀夫文学賞選考委員を務めている。美術、音楽にも造詣が深く、幅広いジャンルで批評を執筆。2008年から2017年まで東川写真賞の審査員を務めた。また、2009年から2016年まで日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当した。2014年には、国立西洋美術館のゲスト・キュレーターとして「非日常からの呼び声 平野啓一郎が選ぶ西洋美術の名品」展を開催。同年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。また、2016年には、マルタ・アルゲリッチ×広島交響楽団の「平和の夕べ」コンサートに、アニー・デュトワ氏と朗読者として参加した。
著書に、小説『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(ドゥマゴ文学賞受賞)『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞受賞)『ある男』を刊行(読売文学賞受賞)、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』等がある。2019年9月より新聞連載『本心』開始(北海道新聞・東京新聞・中日新聞・西日本新聞)。

水野学(以下、水野) 今日は平野さんと対談ということで、とても緊張しています。

平野啓一郎(以下、平野) FMラジオのJ-WAVEの番組審議委員会で毎月顔を合わせているじゃないですか(笑)。

水野 いつも平野さんの発言を聞きながら、「自分もこういうことを言えないといけないんだよなぁ」と思っているんですが(笑)、その委員会で僕の心に残る平野さんの名言があって……。

平野 いやいや、名言なんて(笑)。

水野 ある時、「アフリカ音楽」という言葉が出たんですよね。そこで平野さんが、「もう『アフリカ』っていうのをそろそろやめませんか」とおっしゃったんです。ケニアとかモロッコとかいろんな国があるのに、もう、あんなに広いアフリカをひとくくりにするような時代じゃないんじゃないかと。
僕には平野さんのその言葉がすごく刺さったんですよ。
「カッコいいな」と。

平野 ありがとうございます。

水野 平野さんの言葉をなぜカッコいいと思ったのか、考えてみたんです。
すると、平野さんの新著『「カッコいい」とは何か』を読んでみると、ちょうどその答えになるようなことが書かれていたんですよね。

「カッコいい」対象は、古く硬直した体制を揺さぶり、新しい価値観を提示する。彼らは、「起源」になり得る、という文字通りの意味で、オリジナリティoriginalityがあり、それがあまりに一般化し、マイルドな模範となった時には、「カッコいい」は「カッコ悪い」へと転落し、次なる「カッコいい」存在が必要とされる。
(平野啓一郎著『「カッコいい」とは何か』より)

「アフリカ音楽」と呼ぶことの問題提起は、平野さんオリジナルかもしれないし、何かのヒントがあったのかもしれないけれど、僕は平野さんの発想にオリジナリティを感じたから、カッコいいと思ったんだなと、本を読んで思いました。この一節には、ものすごく重要な意味が込められているような気がします。

平野 オリジナリティというのが議論になった時に、「もうオリジナリティなんてない」とか「全部だれかがやっていることの真似じゃないか」と言う人もいるけど、僕は「それはちょっと乱暴なんじゃないか」と思っています。

水野 なるほど。

平野 確かにその前からだれかがやっていた人もいたかもしれないけれど、作品自体が弱かったり、ポテンシャルを十分に活かしきれていなかったりして、それ自体はオリジナリティとして認識されず、その後にやった人がオリジナルと言われることはあるでしょう。
前の人はかわいそうだけど、何かそうなる理由があるような気がしていて……。

オリジナルと言われるには、きっとみんなが「その手があったか」と思うような刺激が必要なんです。ロックやジャズも、最初は「なんだこれ、わけがわからない」と言われていたけど、刺激があったから、みんなを動かす大きい流れをつくっていったわけで。