古くは「おやじギャグ」という言葉も使われたように、おじさんとダジャレは密接に結びついている。本気で笑いを取りたいわけでもないのだろうが、ついつい口をついて出てしまうのがダジャレ。その実態について、自らも「ダジャレを言ってしまうおじさん」である筆者が考察する。(取材・文/フリーライター 武藤弘樹)
とりあえず自己満足は達せられる
おじさんのダジャレ
テレビでも電車の中吊りでもなんでもいいが、広告に時としてダジャレが盛り込まれたものがある。
そういった広告や、ひいては他人の発したダジャレに接すると、ときとして筆者はいたたまれない気分になる。「それを言ってしまうのですね」というあわれみめいた気持ちに加え、自分の恥部を見せ付けられているような感覚に陥る。というのも、筆者も限定的な状況ではあるが、ダジャレをよく口にすることがあるのである。
感心させられるダジャレというものにはなかなか出合えず、ダジャレはおよそ発言者の瞬間的な自己満足が達せられて収束する。周囲の気まずさは発言者の関知するところではない。しかし、それでもおじさんはダジャレを言いたがる。以前何かの番組で、関根勤氏が「閃(ひらめ)いたら言いたくなってしまう」といった趣旨のことを話していたのが思い出される。「場がよく見えていてコメディアンとして優秀なあの氏でさえ…!」と驚いたのを覚えている。
なぜ、おじさんはダジャレを言いたがるのか。この現象について考察していきたい。