祖父から電話がかかってきたのは、ちょうどスーツケースの詰め込みを終えた時だった。戻ってくることがあるか分からないまま荷造りするのは一仕事だ。電話口の祖父は「いまキエフを去ろうとするな」と声を潜めた。「一生が台無しになる。連中はこんなことを決して許さない」1986年の4月が終わる最後の日だった。16歳だった筆者はキエフで祖母と暮らし、両親はニューヨークに住んでいた。ガールフレンドは商務次官の娘だったが、第153中学校にはもっとコネのある同級生も何人かいた。3日ほど前、そのうちの1人が目を爛々(らんらん)とさせながら、100キロメートルほど北のチェルノブイリ原子力発電所の原子炉が炎上したと話していた。彼が週末に両親から聞いた極秘情報だ。「俺たちみんな死ぬんだ」。そう言って狂ったように笑い声を上げていた。
チェルノブイリと新型ウイルス、独裁体制の限界
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