「信用創造」がなければ、「資本主義」は生まれなかった
中野 同感です。元手となる資金の量的な制約を受けることなく、貸出しをすることができる「信用創造」という銀行制度は、実に恐るべき機能だと思いますよ。
だけど、この「信用創造」がなければ、資本主義経済は現在のように発展することはなかったはずです。現代の資本主義経済は、大規模な設備投資を必要としますから、巨額の資金を調達しなければなりません。もし、銀行が元手となる資金を集めなければ貸出しができないのだとしたら、巨額の設備投資を行うことはできなかったでしょう。
実際、18世紀後半から19世紀前半にかけて、イギリスで産業革命が起きたのも、それに先行して、銀行制度ができていたからだと言われているんです。
――ところで、信用創造に元手となる資金が不要なのだとしたら、銀行はいくらでも好きなだけ貸し出すことができるわけですか?
中野 いやいや、さすがにそんな“ドラえもん”のような話にはなりません(笑)。さすがに借り手側に返済能力がなければ、銀行は貸出しを行うことはできません。だからこそ、銀行は、融資の際に借り手を審査するわけです。
つまり、銀行の貸出しの制約となるのは貸し手(銀行)の資金保有量ではなく、「借り手の返済能力」ということになります。大雑把にいえば、「借り手側に返済能力がある限り、銀行はいくらでも貸出しを行うことができてしまう」ということ。もっと言えば、「借り手側に返済能力がある限り、銀行はいくらでも預金貨幣を生み出すことができる」ということです。
念のために付け加えておくと、民間銀行の信用創造には法令による制約はありますが、本質的には、信用創造の制約となるのは借り手の返済能力だと考えてよいでしょう。
――なるほど。
さて、これで、ようやく本題に戻ることができます。ここまでの説明で、「貸出しが預金を生む」という信用創造の原理を理解してもらえたと思いますが、この原理は、銀行の政府に対する貸出しにもそのまま当てはまります。
つまり、政府が国債を発行して銀行が引き受けるときの原資は、民間の金融資産(預金)ではないということです。銀行が国債を引き受けるというのは、銀行が政府に対して信用創造をするということですから、民間の金融資産(預金)の制約は一切受けません。
したがって、国債をいくら発行して赤字財政支出を膨らませても、民間の金融資産が減ることなどありえませんから、国債金利の高騰という現象も起こりえないんです。真実は逆で、国債を発行して財政支出を拡大することで、財政支出額と同額だけ預金通貨は増えるのです。
――信じられないような話ですが、理屈上は、たしかにそうなりますよね。