本物の「知識」は身を助けてくれる
それに、数年にわたって、そのようなコミュニケーションをとることで、さまざまな部署の担当者と関係性が深まってくると、その部署が抱えている悩みや課題も教えてくれるようになります。これが、非常に有意義でした。
たとえば、工場の各工程の製造設備にはどのような問題点があるのか、そしてどのようなスキルをもった作業者がいて、どのような動作をしたときに、どこでどんな問題が起きやすいのかといった、現場の生々しい、ドロドロした部分までも感覚としてつかめるようになるのです。
製造部門のある人から「荒川は下手な工場長よりも、工場のことをよく知っている」と評されたこともありました。私は、ただ教えを請い続けただけですが、製造部門の部外者でありながら、そのような信頼をいただけるようになったのです。
もちろん、専門知識ではそれぞれの部門の担当者には到底及びません。しかし、彼らとかなり専門的な話ができるくらいにはなれる。しかも、それなりの信頼も寄せてもらえていますから、深いコミュニケーションができるようになる。私は、このような「知識」こそが、本物の「知識」だと思うのです。
実際、その後、40代になって社長直属の秘書課長として参謀役を任されたときに、私を助けてくれたのは、このとき以来培ってきた「知識」と「社内人脈」でした。
ファイアストンの買収事業そのものが社内から強い抵抗を受けているという逆風のなか、社長の“無理難題”とも言える案件を、現場に説明に回るのも私の仕事でした。通り一遍の説明で納得してもらえるような状況ではありません。そんななか、現場とのコミュニケーションが成立したのは、それぞれの現場とかなり専門的な話ができるだけの「知識」と、彼らと培ってきた「信頼関係」があったからです。
その助けがなければ、私は強い反発を前に何もできなかったかもしれません。若い頃から一貫して、社内のさまざまな人々に「知識」を教えてもらってきたことが、参謀としての仕事を助けてくれたのです。
だから、私は、読書をして頭にくっつけただけの「知識」は使えない、いや、危険ですらあると考えています。それよりも、書物を参考にしつつも、あくまでも「人」や「現実」に学ぶことで身につく「知識」(知恵)こそが大切なのです。いや、あくまでも「人」や「現実」に学ぶという思考法を徹底することによってこそ、読書で得た「知識」が本物へと育っていくのでしょう。
そして、そのような本物の「知識」は、必ず、あなたの身を助けてくれるはずですし、参謀として仕事をするうえでは、不可欠のものだと言えるでしょう。