それに、着陸したのはインテルのビルの隣にパーキング・エリアがあったから、そこに降りてもらった。そこから2~3分歩いて、インテルに行ったわけ。当時のサンタクララ(シリコンバレー)はまだのんびりした時代だったから、空から、「あ、インテルだ。隣に降りよう」てなもんだった。
そんなわけで、「何ごとだろうとインテルの社員が見守る」なんてこともなく、普通にビルに入って受付をしただけだ。帰るときに、一階まで送ってくれた広報担当者に「どうやって帰るのか?」と訊かれたので、「いやぁ、ヘリコプターでちゃちゃっと」みたいなことを言ったら、目を見開いて驚いていたが……。
ヘリコプターを使ったのも、別に贅沢というわけではない。
あのときは、インテルのほかにもいくつかアポイントを取っておいたのだが、とにかくアメリカは広いから、場所がバラバラで全部方向が違う。そこで、サンフランシスコの観光地であるフィッシャーマンズ・ワーフで、ヘリコプターの遊覧飛行をやっていたので、これをチャーターしたら早いんじゃないかと思ったのだ。費用は、サンフランシスコからサニーベールまで1500ドルくらいだった。
低姿勢に、だけどしたたかにやる
こんな感じで、とにかく僕は興味関心の赴くままに、アメリカのパソコン情報ネットワークのど真ん中にズケズケと入り込んでいった。
神経が太いからできるんだ、という人もいるかもしれない。確かに、僕は押し出しは強いほうだと思うし、アメリカ人だろうが、イギリス人だろうが、ドイツ人だろうが、中国人だろうが、言いたいことは言ってきた。でも、実は人見知りだし、根暗なところもある。特に、若い頃は、頑張ってアメリカに飛び込んでいったが、内心はちょっと閉鎖的だった。
だから、渡米するときは、トランクの中はインスタント・ラーメンだらけ。日中は、気張ってアメリカ人とどんどん話をするが、「ミスター・ニシ、ディナーをご一緒に」なんて誘われても、「ありがたいけど先約がありまして」と断って、ホテルの部屋にこもってラーメンを食べていた。
でも、これじゃアカンな……。そう思った僕は、こんなメンタル・コントロールをするようになった。飛行機がアメリカの空港に近づいて着陸態勢に入り、滑走路が見えてきたら、アメリカに来たのではなくて、アメリカに帰ってきたと本気で思う。北島三郎の『函館の女』ではないが、逆巻く波を乗り越え、逆巻く雲をかき分け帰ってきたのだと思い込むのだ。そうすると、すごく気持ちがハイになってきて、人にも国にも、まったく抵抗感がなくなる。こういう自己暗示も大事なスキルだと思う。
それで、アメリカの地に降り立つ。
大事なのは、関西でいう「ええかっこ」をしないことだ。「へへ、ちょっとごめんくださいませよ」と図々しく潜り込んで、ニコニコ笑いながら言いたいことを言って、「はい、さよなら」とやる。浪速の商人みたく、低姿勢に、だけどしたたかにやる。これは、世界中で通用するビジネス・マナーだと思う。「低姿勢だけど図々しく」は、世界中で、仕事で結果を出す人に共通する特徴のような気がする。そして、これが身についてきたら、僕も本格的に遠慮がなくなった。
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo