目的は、サンフランシスコで開かれた「第一回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)」だ。このフェアにブースを設けてもらって、『I/O』を展示するとともに、同誌で通信販売していたいくつかの商品を販売するためだった。ちゃんと『I/O』の仕事をしていたわけだ。
ただ、展示・販売は、いわば口実。本当の目的は、WCCFに出展している人々と交流することだ。こういうフェアには、人脈が一堂に会するのだから、そこに飛び込むのが、本場アメリカの情報ネットワークにアクセスするベストの方法だ。
だから、ブースの切り盛りは、現地で知り合ったアルバイトの人に任せて、僕は、会場中のブースに顔を出して、目ぼしい人物を見定めては話しかけまくった。「これは!」という人物がいたら、連日、押しかけては話し込む。3日の会期だったが、「ケイ」とファーストネームで呼ばれるほどの関係性になる。あとは、帰国後も彼らと連絡を取り合いながら、お互いに人脈を紹介し合う。そうすれば、だんだん情報ネットワークは分厚く広がっていく。
「インテル」にヘリコプターで乗り付けた?
その直後、僕は『月刊アスキー』を創刊するが、これも武器になった。
「日本のパソコン専門誌だが、取材をしたい」と言えば、本場アメリカの大企業もむげにはしない。創刊号が出てしばらくたってから、再び渡米。インテル、イムサイ、オズボーンなどの企業を回って、取材をするとともに、知り合いを広げていった。
後に、このときのことを、『日経ビジネス』(1986年8月4日号)は、こんなふうに書いている。
「彼は、コンピューター関連の有力企業を見学するため、一人米国を転々としていたが、その中の一社インテル(大手半導体メーカー)に、何の事前連絡もなくヘリコプターで乗りつけてみせた。バラバラバラとインテルの構内に突然轟音が響いたと思うと、ヘリコプターが駐車場に舞い降りてきた。何ごとだろうとインテルの社員が見守る中で、のそのそ出てきたのは、童顔の日本の『ボーイ』である。これには、さすがの米国有力ハイテク企業の社員たちも驚いた」
この記事によって、僕の「新人類」としてのイメージは強化されたようだが、これは少々誇張がある。「何の事前連絡もなくヘリコプターで乗りつけてみせた」とあるが、さすがにそんな失礼なことはしない。ヘリコプターで行ったのは事実だが、前もって何時頃に行くという連絡はしてあった。