注目すべきは、西南戦争を起こして逆賊となった西郷を堂々と加えている大胆さである。もっとも、他の2人を利通公とか木戸公と呼んでいるのに対して、西郷だけは隆盛と呼び捨てで敬称が付けられていない。

「維新の三傑」からさらに発展して、数年後に登場したのが、山脇之人『維新元勲十傑論』である。 選ばれた10名に共通しているのは、「三傑」と同様、同書が刊行された明治十七年(1884)時点で、すべて鬼籍に入っていることである。いわば、維新革命の「第一世代」といってよい。そのため、その後の明治政府を中心的に担い、当時存命していた伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義・大隈重信など「第二世代」は一人も含まれていない。

 じつは十傑を一人だけ差し替えてある。同書には前原一誠が挙げられていたが、筆者の判断で後藤象二郎とした。その理由は十傑に土佐藩出身者が一人もいなかったからである。薩長土肥と呼ばれ、肥前(佐賀)の江藤新平がいるのに、土佐が一人もいないのは偏りが過ぎる。

 著者の山脇が土佐人を一人も挙げなかったのにはおそらく2つの理由があった。一つは土佐人として候補に挙がるとすれば、板垣退助か後藤象二郎だが、両名とも明治十七年時点で存命していたこと。二つめは山脇が自由民権派に嫌悪感を抱いていたことだろう。同書の序言に「徒に是非を口舌の間に闘はすが如き民権者の企て及ぶ所ならん哉」と否定的な言辞がある。

 また山脇が同書を明治十七年に刊行したのは偶然ではなく、前年の七月に岩倉具視が死去したことと無関係ではあるまい。山脇は岩倉の最初の伝記『岩倉具視公小伝』の編者でもあったからである。

「人事は棺を蓋うて定まる」(人の評価はその死後にはじめて決まる)というように、「三傑」や「十傑」における選定基準には、被対象者がすでに死去していることなど何らかの画期や背景があり、さらに選定者の政治的な立ち位置や価値観が反映しているといえよう。「三傑」や「十傑」にはバイアスがあることを銘記しておくべきだろう。

戦いを勝利に導く
「指導力」にすぐれた人材は誰だ

 幕末から明治の創業期にかけての4半世紀は日本史上、まれに見る政争や戦争が繰り返された時代でもあった。

 ペリー艦隊の来航以来、徳川幕府の弱腰により、その統治能力に疑問符がつけられるようになった。その意味で明治維新は新たな政治体制の創出のため、犠牲を伴う産みの苦しみになった。

 始め、水戸斉昭、島津斉彬、松平慶永などの雄藩諸侯が幕府に改革を求めて失敗した。次に尊王攘夷運動が高まると、諸藩の藩士や浪士たちが横につながる形(処士横議)で天誅も含む過激な運動形態が取られ、それは天狗党の乱や禁門の変の敗北をもって終わりを告げる。