総理総裁を論じる本稿にしては、なんとも小さい話をしているように思われるだろうが、こうした小さなところにも組織的慣性は入り込み、業務の効率を落としていたということを言いたいのだ。Wordの書式から罫線がなくなってからの科研費申請は、ドラスティックに変わった。定型部分や予算の金額の入力などは、Web入力による自動文書作成に変わり、申請自体も電子化された。

 この程度の話であれば、それほど大きな抵抗勢力は出て来ないが、話が年金や税制の話になれば別だ。ドラスティックな改革を進めるには、これまでのやり方とは異なるやり方を志向する政治家が必要であり、それは従来の延長線上のやり方ではないので、多くの抵抗にあう。さらに、従来のやり方には実績という心強い根拠があるので、変革を起こそうとする人は理論的に叩かれるのである。

「変革だけでは変革できない」
民主党政権の根深いトラウマ

 さらに、日本の政治には変革に対するもう1つのアレルギーがある。小泉改革という非連続な変化の後に長く続いた自民党政治では、組織的な慣性が政治不信につながり、国民は政権交代という非連続な変化を望んだ。しかし、民主党政権の体たらくに辟易とした国民は再び過去の実績を重視した自民党政治に回帰する。

 このことは、変革とは変革だけでは成り立たないことを意味している。民主党政権は、長く続いた野党時代に政権担当能力を身につけることができず、政府を日常的に動かして行くための基本的な能力やノウハウの欠如が見られ、結果として思うような成果が出せずにいた。これは今の野党にも通じるところがある。

 個別の政策レベルでは、民意を反映し、国民の支持を得られる主張をしているところもあるように見えるが、全体として、連続的に身につけるべき政府の基本的な運営能力が身につかないまま、民主党時代のトラウマから、自民党政治への批判の受け皿になり切れずにいる。
 
 社会の出来事は複雑な因果関係の連鎖であり、変革すべきところに変化をもたらしつつ、これまでのやり方を踏襲すべきところは踏襲し、変革と踏襲に矛盾が生じるときには個別に調整をしていかなければならない。このとき求められるのは、変革する力と老練な連続的な組織運営能力の双方である。