有事に社会実装が進む
「3つの条件」

 有事にテクノロジーの社会実装が進むには3つの条件があるようです。1つは技術が十分に成熟していること。2つ目は社会実装の普及率が一定の閾値を超えること。3つめはガバナンスの変化が事前に十分に起きていることです。

 今回の新型コロナウィルスの流行を機に、様々な場所でドローンやロボットが試験的に導入されたことがニュースになりました。人々が接触をしないように、ラストワンマイルの配達を自律走行のロボットが行うことなどが実験されました。しかし、本書執筆の時点ではそれが日常的な風景にはなっていません。

 その大きな理由の1つが、1つ目の条件である「技術の成熟度」が足りなかったことです。

 たとえば「ラストワンマイル」の自律走行は2020年の現時点では、技術的に十分成熟しているとはまだ言えません。ドローンはまだバッテリーの問題で、長時間稼働できないという課題が残っています。

 一方で、新型コロナウィルスの流行によって、大きく変わったものの1つにリモートワークがあります。ホワイトカラーの一部の人々は、出社を避けるために遠隔で仕事をするようになりました。すべての会社がすべての平日でリモートワークになったわけではありませんが、週のうち何日かはリモートワークを可にする会社も現れるなど、働き方が変わりつつあります。一部の企業では恒久的にリモートワークを導入するといった発表もありました。こうしてリモートワークが一気に広がったのは、リモートワークで使われるオンライン会議の技術がそれまでに着実に進歩していて、自然な会話ができる程度に成熟していた、つまり人々のデマンドを満たすレベルとなっていたからでしょう。

 有事だからといって、技術が一気に発展するわけではありません。もちろん戦争等の有事において特定の技術が一気に発展することもありますが、多くの場合は時間をかけて技術は成熟していきます。平時において十分な進歩をしていた技術しか、有事の勢いの恩恵を受けることができない、と言えるでしょう。

 2つ目の条件、有事に至るまでの「社会実装の普及率」について見ていきましょう。

 先述の通り、日本でリモートワークは一気に広がった一方で、オンライン診療はそれほど一気に普及しなかったようです。必要な技術はオンライン会議もオンライン診療も、どちらもおおよそ同じはずなのになぜそれほど広まらなかったのでしょうか。

 他の国に目を向けてみると、中国ではコロナ禍においてオンライン診療が一気に広がったとニュースになりました。コロナ発生以降、平安グッドドクターと呼ばれるオンライン診療アプリの新規登録者は例年の10倍の勢いで増加し、新規登録者による問診の件数は9倍に達したと言われています。中国ではオンライン診療が有事において社会実装された、と言えるでしょう。では日本と中国でのこの違いは一体どこにあったのでしょうか。

 日本におけるリモートワークとオンライン診療の違いは、有事になるまでの普及率の差が一つの要因だったと考えられます。

 リモートワークについては、コロナ禍が始まる前であっても導入する日本企業は年々増えてきており、2019年の総務省の調査では20.2%の企業がすでに導入済み、さらに9.4%が今後導入予定があると答えていました(※2)。つまり、すでにそれなりの数の人がリモートワークを経験している状態だったのです。すでに経験している人が多ければ、まだ経験したことがない人も、周りから手助けを得ることができます。そうした状況でコロナ禍に入ったことで、一気にリモートワークは普及し、社会実装されました。

 一方、コロナ禍に入る前、日本でオンライン診療を経験したことがある人はそれほど多くありませんでした。調査にもよりますが、日本でオンライン診療に対応している医療機関普及率は2020年春時点で1%程度でした。しかもオンライン診療を行ってよいとされる対象疾患は数少なく、同一医師によって6カ月間、毎月対面診療を実施していることが条件とされており、診療へのハードルが高い状態でした。

 一方の中国では、コロナ禍に入る前であっても、平安グッドドクターは、2019年末時点ですでに登録者が約3.2億人の規模に達していました(※3)。中国ではそれ以外にも1000以上のオンライン診療関連の企業があるとも言われています(※4)。つまり、コロナ禍が始まる前に、中国ではオンライン診療の「平時の社会実装」がすでにかなり進んでいたのです。そうした普及率を背景に、危機において一気にオンライン診療が広まったと言えます。

 ペンシルバニア大学でコミュニケーションと社会、エンジニアリングの関係を研究するダモン・セントーラらは、実験とシミュレーションの結果から、社会が一気に変わるには25%の人が変わる必要があると指摘しています(※5)。コロナ禍の日本においては、平時に着実な社会実装が進んでいたリモートワークは25%以上の閾値を超えて人々が行動を変え、一気に社会に広まったのに対し、オンライン診療は平時においてそこまで社会実装が行われていなかったため、その閾値まで達しなかった、と考えられます。平時の社会実装における着実な技術の進歩や試験的な導入といった準備がなければ、有事の社会実装もなかなか起こりえないのです。