「技術の成熟度」「普及率」「ガバナンス」
平時のうちにこれらの社会実装を進めておく

 続いて3つめの「事前の十分なガバナンスの変化」があったかどうかを見ていきましょう。

 技術的にはできるはずなのに、ガバナンスが障害になって普及が進まない、という事態が起こっていたのが電子署名です。それを有事のコロナ禍においてガバナンスの在り方を見直す機会を得たことによって、電子署名は普及拡大の機会を得ました。

 オンライン診療の日本でのガバナンスも進みつつはありました。2018年3月にはオンライン診療に関する指針が制定され、同年4月からは保険適用が行われています。また規制のサンドボックス制度などを使って、実験を行っている事業者もいました。

 ただ先述の通り、オンライン診療が可能な範囲が限られていたほか、医療機関の収入源となる診療報酬点数は対面に比べて約半分と、病院経営側からすればオンライン診療を実施するインセンティブもまだ十分ではない状況でした。しかも、オンライン診療をするためにはシステムの初期投資も必要です。こうした背景もあり、導入する医療機関が限られており、そのためオンライン問診を実施したことがある医師も、オンライン診療を受診した患者も少ないままでした。

 もちろん、こうした様々な制約は安全とリスクを鑑みて生まれたものではあるものの、オンライン診療について一部の団体が反対していたという背景も影響しているでしょう。コロナ禍においてオンライン診療に関する規制緩和は行われましたが、その前に普及していないことで、法律というガバナンスを急遽変えても、慣習というガバナンスは変わらなかった、と言えます。

 一方、中国ではもともと慢性的な医師不足や、広大な国土を背景とした都市部と農村部での医療格差といった問題があり、オンライン診療に関する法整備や保険適用が進んでいました。2018年にはオンライン診療についての規制が整えられ、2019年には公的医療保険制度のオンライン診療への適用を進めようとしており、2020年には復旦大学付属中山徐匯雲病院が公立病院として初めてオンライン専門病院として認可されるなど、オンライン診療に向けた施策が打ち出されていました。そしてコロナ禍において、さらなる規制緩和が行われ、これまで保険適用を認めていなかった地域も保険適用を認めることで、一気に普及が加速しました。

 こうした有事や緊急時のタイミングで特徴的なのは、「インパクト」の設定と「センスメイキング」が行いやすいという点です。たとえばインパクトとして、「平時と似たようなアウトカムを目指す」というわかりやすい目標設定が可能になります。「そのためには新しい技術の導入が必要だ」というセンスメイキングも容易です。本当にその取り組みが有効であれば、あとはガバナンスさえ変えれば一気に社会実装ができる、という状況だと言えるでしょう。

 このように、「技術の成熟度」「普及率」「ガバナンス」の3つの条件が事前にそろっていることで、有事の際に社会実装が進みます。言い換えると、そのためには平時の社会実装を着実に進めておかなければならない、ということです。

「政策の窓」を開くためには
3つの流れが合流する必要がある

 3つの条件のうち、「技術の成熟度」「普及率」の2つは着実な進歩が必要なものです。一方、3つ目の「ガバナンス」は有事において大いに変わる可能性を持ちます。

 ガバナンスを変えるためには政策を通す必要があります。そうなってくると、いよいよテクノロジーの社会実装は「政策起業力」の問題へと接近します。

 政策の分野では、政策が常にいつでも通るかというとそうではないとされています。政策には通るタイミングがあります。公共政策の研究者で、アジェンダセッティングの重要性を指摘したキングダンは、そのタイミングのことを「政策の窓(Window of Opportunity)が開く」と表現しています。

 政策の窓が開くのは、問題の流れ、政策の流れ、政治の流れの3つの流れが合流したときです。

 まずは問題が問題だと認識されることが最初に必要な流れです。この「問題の流れ」が開かなければ、アジェンダに設定されることはありません。議員や官僚、専門家が政策のアイデアを多く出し、解決策としての政策案が検討されなければ「政策の流れ」を作ることもできません。そして最後に、議員や官僚、利益団体、メディアや市民などが特定の政策案を受け入れなければ、「政治の流れ」は変わりません。どんなに良い政策の案があったとしても、政策の窓が開いていなければ政策変更はできず、そして政策の窓が開いたとしても、その窓が開いている時間はそう長くはありません。

 有事はまさに政策の窓が開くタイミングです。問題が問題として広く認識され、そして政治家や官僚も危機に対して動きます。市民やメディアは解決策としての政策を受け入れる姿勢を示すでしょう。すべての流れが揃うのです。このタイミングで政策を通し、ガバナンスを変えることができれば、社会実装も大きく進むことになります。

 コロナ禍でも政策の窓が開きました。はんこから電子署名という点では、問題の流れに加え、政策の流れも政治の流れも合流し、政策の窓が開き、新たなガイドラインが政府から提出され、ガバナンスが大きく変わろうとしています。また、オンライン診療に関するガバナンスをこのタイミングで変えようという動きもあります。

 テクノロジーの社会実装にはガバナンスの変化が必要であると考えると、社会実装にも「社会実装の窓」のようなものがあるのでしょう。問題の流れ、政策の流れ、政治の流れに加えて、技術の流れのようなものがあり、それらが合流することによって、テクノロジーの社会実装がなされると考えられます。有事は、テクノロジーの社会実装のチャンスでもあるのです。