この好かれる監督と
嫌われた監督の違い

 新庄が素晴らしいのは、目立ちたがりでスタンドプレーのように見せかけながら、実は、天性の人を引きつける魅力でもって自分に当たった注目を、上手に周りの人にも向かわせるように仕向けることである。表向きは“自分が”と言いながら、全体や仲間を主役にするように、極めて自然に展開していくのだ(普通は逆なのだが)。

 そこにおいて、彼が周囲の選手たちに求めるのは、美意識である。ファンにとってかっこいい存在とは何か。もちろん見た目は大事だが、そこにとどまるものではない。弱いチームでくすぶっていると、本来は憧れの存在であった自分がどんどんダレてしまう。プロになる人はもともと全員がスーパースターだったのだ。そこで、見られる自分を改めて意識させ、憧れの存在に復活させようとする。美しくあろうともさせる。形から入る方法で内面をも充実させようと仕向けるのである。そして、美しくあるために自己超越をしろ、というのである。その自己超越こそが大事であり、全員にそれを求める。

 一方、嫌われた監督は、選手にそんなことは言わない。自分のために自分の仕事をやれというだけである。同様に、監督は試合に勝つことだけを目的にしており、選手は過去の貢献とは関係なく、目の前のゲームに必要なピースであるかどうかだけが、常に試される。

 ピースになるための、技術と精神状況をつくり出すのは個々の選手なのであり、できなければたとえ実績のある選手であっても説明もなくスタメンから外される。すべてが自分の責任であり、自分の判断である。プロであるなら、自分で生き残る道を見つけろ。道を聞きたい者がいればアドバイスも指導もするが、聞きたくない者には何も言わないし、可能性のない者は消え去れ。それがプロの世界というものだろうと。

 外面から入るか、内面から入るかは違うが、自己との戦いに勝つことを要求することは同じである。ただ現段階においては、新庄と落合で求めるレベルはかなり差がある。新庄が見ているチームにはまだまだこれからという選手が多いのだろう。

 野球に向かう姿勢も一見異なるが根っこは似ている。新庄は監督就任の記者会見で以下のように言った。

 まずは作戦面。こういう野球で、ヒットを打たなくても点は取れるんだと。作戦面でのおもしろさ。こんなやり方があるんだ!というのを僕たちから先に発信して、他の球団がまねされるような感じで考えている。そのためには選手たちが僕の考え方をしっかり把握して、ついてこなければできないので、早く選手と会って、伝えていきたいなと思っている。考えているときも楽しいし、考えたことを行動に移して、成功したときのうれしさはたまらなくあると思うし。それがプロ野球を変えていく一つの方法ではあると思います。(監督就任記者会見コメント)

 新庄は自分の感性から見て、現在の野球のセオリーと呼ばれるものの中で、正しくないものがあるという仮説を持っている。これがどのように出てくるか。新庄がチームの指揮をするのは今回が初めてだから、まだ誰もわからない。そのすべてが成功することはないだろうが、現役時代に敬遠のボールをヒットしたように、スポーツ紙の一面を飾るような、いい意味での“事件”を何度か起こしてくれるだろう。それこそが自分の役割と認識しているからだ。

 一方、落合の個々の試合運びの作戦は、実は極めてオーソドックスであった。

 十年に一度くらい優勝すれば、名古屋のファンはそれを肴にして次の歓喜を待つことができる。(中略)だが、落合はたった一つの敗北も許さなかった。確実な勝利を求めた。その試行錯誤の果てに、打撃そのものを信用しなくなっているように映った。「打つことは良くても三割だ。でも、守りは十割を目指せる。勝つためにはいかに点をやらないかだ」落合は言った。野手よりも投手を集め、打てる者より守れる者をゲームに送り出す。そうした合理性の追求は勝利の確率を高めたが、同時に落合の野球が「つまらない」と言われる要因にもなっていた。(『嫌われた監督』より)

 しかし、落合はただセオリーをうのみにしたりはしない。必ず自ら定点観測をして、徹底的に情報を分析して、正しいと考える理屈を生み出し、それにのっとって意思決定をするのである。たとえば打撃において「なぜセンター返しが基本なのか」「ボールをしっかり見るとはどういうことか」「コンパクトにスイングするとはどういうスイングか」、誰もが当たり前のように言う野球の「常識」であっても、これらが本当は何のことを意味するのか、どのような人のどんな場面で機能するのか、本当に意味はあるのか、こういったことをすべて自分の頭で考え、体で検証し、理屈として認識した上で、その良しあしを判断し実行に移すのが落合なのだ(たとえば、センター返しなら、右打ちの場合ノッカーは必ず打ちたい方向に左肩を向けて打つ。両肩をつなげたラインの先に球が飛ぶ。バッターボックスにマウンドを向いて立てば、両肩のラインはセンター方向に定まるのでセンター返しが最も合理的な方向である、といった具合である)。

 そして、その理屈が試合で実現できるようにするための実践的な練習をし「こうすれば勝てる、打てる」という意識づけまで行って、初めて試合に臨むのである。この結果、大きな選択において、世間一般が驚くような決断をすることも多いために、落合流は「オレ流」などと評されることになったが、すべての行為に確固たる理屈がある。

 実績のある井端、荒木のショートセカンドの入れ替え、チームのレジェンドである立浪から森野へのレギュラーのチェンジ。これらにもしっかりとした理屈があった。ただ、それらは語っても理解されないだろうし、頭では理解されても感情が許容しないだろうということで、その背景について落合が語ることはなかった。世間も周囲もそうした落合の選択と姿勢を、結果が出ているにもかかわらず、嫌った。