関東大震災により
東京の郊外化が加速

 特筆すべきは1922年、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄が設立されたことであろう。1918年に渋沢栄一らが中心となって設立された田園都市会社は、調布や多摩川、洗足に住宅地を開発し、その交通手段として目黒~蒲田間に鉄道を整備した。

 目黒蒲田電鉄は1923年3月に目黒~丸子間で開業。11月には残る丸子~蒲田間が開業し、全通する。この間、9月1日に発生したのが関東大震災である。震災を契機として人口が密集し、危険で環境の悪い都心から郊外へと移住する流れが決定づけられ、東京の郊外化が一気に加速した。そうした意味で、1922年とは東京の過去と現在を分かつ、分水嶺(ぶんすいれい)となる年だったと言えるだろう。

 また1922年は、1872年の日本初の鉄道開業(官設鉄道、新橋~横浜間)から50周年という節目の年であった(つまり今年は鉄道開業から150周年だ)。

 鉄道開業50周年(数え年)を記念して、1921年10月から期間限定で東京駅北口に「鉄道博物館」が設置された。ここで展示された資料は1923年の関東大震災で焼失するが、1924年に東京~神田駅間の高架下に再設置され、1936年に神田須田町に移転。戦後は「交通博物館」と名前を改め、2007年からさいたま市の「鉄道博物館」にその役割を譲った。

 鉄道省は1922年10月、官設鉄道が開業した10月14日を「鉄道記念日」に制定。これが1994年に「鉄道の日」と改められ、現在に伝わっている。

 地方において特に影響が大きかったのが、1922年4年に公布された「改正鉄道敷設法」だ。全国に敷設すべき路線を定めた同名の法律が1892年に公布されているが、30年が経過し予定線の整備が進んだため、新たに178路線、総延長約1万キロの予定線を織り込んだ新法が定められた。

 旧法が全国幹線網の整備を目的としたのに対し、新法は支線網、つまりローカル線の建設を主眼に置いていた。一方で、この法律は路線をリストアップするのみで、予算や建設順位については何ら定めていなかったため、政治家は地元路線の建設をめぐって利権を争い、「我田引鉄」と呼ばれるような事態に陥った。

 ちなみにこの法律は1987年の国鉄民営化まで存続し、国鉄の経営が悪化した後も、鉄道建設公団(鉄建公団)の手によってローカル線の建設が進められた。自動車や航空機の発達により、既に鉄道が競争力を失った地域にまで新線建設を進める根拠となった同法は、国鉄破綻の一因になったと指摘されている。