薄い契約書と分厚い契約書、
どちらが合理的なのか

 本書には日本人の契約意識についても述べられている。読者の会社では、契約書はどのくらい分厚いだろうか。平成の初期くらいまで、一般的には薄かった。必要最低限のことだけが記載され、何か起こったら互いに協力して「話し合い」で解決する、と最後の条項に書いてあり、またそれが契約を貫く基本的なスタンスであった。

 しかしながら、企業のグローバル化に伴って欧米企業と仕事をすることが増えると、日本企業同士の契約書もどんどん厚くなってきた。何かをやる前に、「こんなことが起こったらこちらはどうする」「あなたはこうする」などと細かく取り決めをして、契約書に書き込むのである。合弁企業を作ろうとする際に解消についてまで取り決めるのだから、当初はびっくりした人も多かったに違いない。実際、将来何が起こるかは事前にはわからない。何かが起こった後に情報を精査して、互いに一番良い結果を求めて話し合えば良い結論が出ると考えるほうが、合理的だとも言える。

「契約上の義務をそのように確定的・固定的なものにすると『融通性がなくなって』不安だ、と主張されたのである。すなわち、契約内容の不確定性は、西洋の人には不安感を与えるのに対し、日本の人には安定感を与えているのである」(川島武宜の『日本人の法意識』)

 素性がよくわかっている相手と繰り返し事業を行ってきた日本企業にとっては、無茶な主張をすることは相手にとっても良くない結果をもたらす(次からの仕事がなくなる、業界での評判が悪くなるなど)ことから、権利の主張はおのずから合理的な範囲内にとどまるはずだと考えられ、実際にそうであった。

 一方、新しい取引先や提携先などとも果敢にビジネスを行う外国企業にとっては、取引を成立させるうえでのリスクヘッジとして、契約内容を事前に確定的、固定的にすることが選ばれたのである。その意味では、契約書は相手のタイプによって使い分ければよいと考えられるのだが、一般的に契約書はどんどん厚くなっている。信頼できない相手が増えて来たのか、法務部門や弁護士の仕事の確保のためか、リスクの限定をしておくほうが資本家から信頼されるということか。

 いずれにせよ、ビジネス社会においては、事前に取り決めを行い最大の損失額などを確定しておくことは、すでに一種の文法になったといえる。